生老病死
     人生の目的は何か
   池田大作

                    二〇〇二年九月三日 聖教新聞紙上に発表


おお
人間!
おお
なんと不思議な
生命か!

人間
何のために
この世に
生まれてきたのか。
何をせんとして
生きてゆくのか。
何を使命として
この世を送り
去っていくのか。
自問自答する人も多い。
しかし
その明快なる答えは
見出せない。

生命!
なんと不思議な
存在であろうか。
この生命は
いずこより
来たりて
いずこへ
往かんとするのか。

何のために
自分自身という使命を
持つのか。
これまた
明確なる解答を出すのは
難しい。

ただ
多くの哲学者が言うごとく
人生の目的は
平和にある。
幸福にある。
確かに
その通りかも知れない。

またある哲学者は
人生の目的は
正義のために
生き抜くことにあると言う。

正義とは
暴力に対し
邪悪に対する
人間の道理の上の
行動であり
活動である。

正義!
その永遠に連なる
不変なる法則とは
一体 いかなるものか。
これもまた
厳密に言うと謎である。

今 人生にとって
最も重要なことは
哲学が
あるかないかである。
真実の宗教が
あるかないかである。

魂を納得させ
揺り動かしていく根拠を
持たない法理や
哲学のない政治も宗教も
真っ平だ。

殉教の創立者
牧口常三郎先生は語った。
「正当なる目的観は、
 人生の目的といふ
 人間の終局的目的から
 割り出されなければならぬ」

人間は
前世紀より今世紀へ
そして
今世紀より次の世紀へと
健全にして
強靭な精神を
持ち続けていくべきだ。

そこにのみ
伝統的な大地に
幸福と平和への文化を
染み込ませていく
重要な課題がある。

我らは
大衆とともに
名誉と責任のある世紀を
創るべきだ。
漠然とした
妄想の世紀や国家は
飽き飽きだ。

アメリカ民主主義の父にして
第三代の大統領
トマス・ジェファソンは言った。
「平和の維持は
 人民に知識を
 与えることによる。
 これこそ、
 政治の機関(エンジン)として
 最も確実な
 最も正当なものであります」

経済を
優遇するのもいいだろう。
科学を
信奉するもいいだろう。
政治を
唾棄(だき)するのもいいだろう。
芸術を
新しい鎮静剤とするのも
いいだろう。
観念的な哲学や自由主義を
賛嘆するのもいいだろう。
しかし
化学も生物学も
工学も物理学も
哲学も政治学も
文学も経済学も
すべてが
最も明快にして
大衆のためになる効果を
与えるかどうかである。
一部の特権階級の
ものであってはならない。

「最も大きな真理は
 最も単純である」とは
トルストイの洞察である。

人間的向上を知らぬ者が
多くの地位と名声を
保っている矛盾。
その人格の衰退が
いかに多くの階層に
不審を抱かせていることか。

新しき人類の
幸福への開花のためには
偉大なる新思想の
豊かな開花が
なくてはならないだろう。

それは
最も明確な形で
人間的なもので
なくてはならない。
歴史の停滞を打破し
振動させゆく
幾千年も待ちに待った
「新しき文明」と呼ぶ
人間の努力の
結晶であるはずだ。

その最も輝く
大輪の人間文化の花が
咲き薫る時に
人類の難破の彼方に
新しい偉大なる
幸福と平和の誕生が
待っているに違いない

我々は形式主義と化しゆく
異常に肥大した
悲痛な人間の歩みは
まったく御免だ。

各自が
各々の最上の晴れ着で
身を飾りながら
過去からも
未来からも
「あの世紀は
 最極(さいごく)の世紀であった」と
最も感嘆されるべき時代を
創り上げるのだ。
それは
栄誉ある
平穏にして威厳に満ち満ちた
時代である。

フランスの哲学者アランは
綴っている。
「だれもが
 自己というもの、
 そして
 死という人間共通の条件に
 立ちかえる」

自分自身とは何か。
人生の目的は何か。
生老病死を
いかに打開していくか。

新しく創造してゆく
我らの新世紀は
根源的な人間の
心の奥からの関心を
究明するとともに
変革しゆく
勝利と平和と栄光の世紀だ。

君よ
常に大事なのは
未来である。
そしてまた現在である。

到達すべきは
一人ひとりの
精神的な図式を
不安と心配なく
実証的に解明し切った
信念と価値と
正義と幸福の
疑わしきが無き
新しい人間の世紀なのだ。

常に
ある種の暗い恐ろしい
戦慄を覚えていくような
精神的な痙攣(けいれん)を
起こしゆく世紀を
断じて創ってはならない。

あらゆる権力と魔性の
危機から脱しゆく
新しき世紀の方向へと
立場を見据えていくのだ。

あの病的に陰気な人間から
生まれ変わって
正確な概念規定を持ちゆく
人生であらねばならない。

それには
生命の内部から
生命の現実そのものから
徹底的に体験を
明晰(めいせき)に知り抜いていくことだ。

現実に
生きていく人間の立場から
生老病死を
再確認しなければならない。

人類にとっての過ちは
断じて犯してはならない。
人間にとっての
功名心を持った
権力者たちに
緊張と苦悩を
注射されてはならない。

正しく高くして
各人の正確な人生を
生きる権利は
一人一人の生命の
内部の高低によって
決まるからだ。

ギリシャの
無名の若き哲人は謳った。
正義のために
弾圧を恐れるな!
正義のために
人生はあるのだ。
卑劣と卑怯と
戦い抜く人生が
尊いのだ。
真の勝利者なのだ。
その人間から
平和が誕生するからだ。
幸福が生まれるからだ。
人間愛の連帯が
創出されるからだ。

牧口先生は叫んだ。
「悪の排斥と
 善の包容とは
 同一の両面にすぎぬ」

人生は戦いだ。
正義と邪悪との
戦いである。
平和と戦乱との
戦いである。
繁栄と破壊との
戦いである。
幸福と不幸との
戦いである。
慈愛と残酷との
戦いである。
真実と虚言との
戦いである。
人間と権力との
戦いである。

知性の我らには
権力の偶像などはいらない。
そんな子ども騙しの如き
幻の寓話の世界など
誰が信ずるか。
我らは
光り輝いて
生き生きとした
人生の言葉で語り
永遠の熱い涙で
未来を語り合っていくのだ。

アメリカの哲学者
デューイ博士の箴言には
「伝達もされず、
 共有もされず、
 表現において再生もされない
 思想は
 独白にすぎない」とある。

おとぎ話や
魔法の著名人たちの
独りよがりの
愚劣な小さい車などに
誰が乗るか。

彼は
無数の財宝と
名声高き権力の宝を
持ちながら
魂は侘しき奴隷。

我らは常に
人間の偉大なる魂を
光らせながら
自由奔放に生き抜くのだ。

その彼方には
完全なる法則の
理に適った目的と目標を
目指して進むのだ。

君よ
臆病者と言われるな
失望の敗北者と言われるな
堕落の転落者と言われるな!

いかなる険しき
絶壁に立たされても
君よ
断固として
若々しき魂をもって
朝の崇高な光に
照らされながら
頭(こうべ)を上げよ
胸を張れ!

新しく勝ち取った
全生命を荘厳して
美しき未来を見つめながら
確かなる使命とともに
立ち上がっていくのだ。

そして
その湧き出ずる情熱で
すべてを果たし
勝ち抜くのだ。

「苦悩の恩恵を識(し)らぬ人は、
 まだ叡智の生活を、
 すなわち真の生活を
 生活し始めない人である」

トルストイは論じている。

おお 眼前に
厳かに無限に広がりゆく
広大なる
生きとし生けるものの
充実した歳月と人生!

君の勝利と栄光の冠を
私は見つめたい。
そして
あの厳しくも楽しい日々の
戦闘の思い出を
語り残したい。

三十年前
トインビー博士は
私に遺言のごとく語った。
「今の社会は
 目先の栄華と栄誉ばかりを
 追い求めている。
 世の多くの指導者も
 生死という根本の大事を
 見つめないで避けている。
 そこに世界の不幸がある。
 生死の命題を解決せずして
 真実の人間的文明は
 あり得ない」

人間!
現実に社会の中で
生き抜いている
この事実の姿。

葛藤あり
幸不幸あり
戦争あり
不和あり
殺人あり
いがみ合いがあり
世界の国々の
多くの法律をもってしても
根絶できない
この人間の悪業よ。

人間の
そして
人生の目的は
一体 何か。

その追求のために
人類は
一段と深き英知を
結集すべきだ。

あらゆる政治家も
学者も
国連も
追求に
追求をしていくところに
新しい人類の世紀の
夜明けが到来するに
違いない。

              二〇〇二年八月三十一日
                東京牧口記念会館にて
                     世界桂冠詩人

               入信五十五周年の
               「8・24」を記念して


   トルストイの言葉は原久一郎訳。
   アランの言葉は串田孫一、中村雄二郎訳。
   デューイの言葉は阿部斎訳。