梁塵秘抄『法華経序品』(ほけきょうじょぼん)五首
妙法蓮華経『二処三会』の概説
樹冠人:序品第一の場面説明の前に、説法の舞台となった「霊鷲山」と「虚空」と「二処三会」の関係について説明してください。
妙櫻華:「二処三会」(にしょさんえ・にしょさんね)とは、法華経が説かれた二つの場所と三つの法会(説法のための集会)のことで、二処とは「霊鷲山」と「虚空」を指し、三会とは「前霊鷲山会」「虚空会」「後霊鷲山会」のことです。
樹冠人:法華経の全体展望をすると、序品第一から法師品第十までは、「霊鷲山」を舞台に展開され、見宝塔品第十一で巨大な宝塔が大地から涌出して空中に浮かび、宝塔に釈尊と多宝の二仏が並座し大衆も空中に引き上げられ、説法が開始され「虚空会」が嘱累品第二十二まで続きます。そして、薬王菩薩本事品第二十三から「霊鷲山」に戻り、終章の普賢菩薩勧発品第二十八まで「霊鷲山」で説法が展開されますね。
樹冠人:「二処三会」という法華経全体の流れが、何を表そうとしているのか?が、重要な問題ですね。
妙櫻華:「霊鷲山会」と「虚空会」の関係は、生命論の上から、重要な意味があるのです。「虚空会の儀式」は、過去の仏である多宝如来と現在の仏である釈迦如来が並んで坐った「二仏並坐」で始まります。そして、未来の仏である上行菩薩が呼び出され、上行菩薩への付属をもって終ります。つまり、過去・現在・未来が、この儀式に納まっているのです。
樹冠人:超時間・超空間の世界である「虚空会」は、三世永遠なる世界ですから説法する釈尊も「永遠の仏陀」ですね。
妙櫻華:この「永遠の仏陀」は、釈尊の悟った法の真理を体現しています。つまり、その真理とは、日蓮大聖人が阿仏房御書で「七宝を以てかざりたる宝塔なり」と示された真理です。我々の生命にこの宝塔が厳然と存在するという真理です。
樹冠人:まさしく、参集した会座の大衆が虚空に引き上げられたのは、この真理の世界に入ったことを意味し、全ての衆生が「永遠の仏陀」であるということですね。
妙櫻華:日蓮大聖人は、船守弥三郎許御書で「過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり」と仰せの如く、「虚空会」は、十界の衆生がことごとく平等であるという世界です。つまり、衆生と仏との間には差別がない世界を表現しているのです。
樹冠人:また、「二処三会」は、日蓮大聖人が御義口伝で「大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり」と仰せの如く、「色心不二」を表しています。また、「皆在虚空とは我等が死の相なり」とも仰せで、霊鷲山は「生の相」と考えられますから、「生死不二」をも表現していますね。
妙櫻華:生死一大事血脈抄には、「妙は死、法は生なり」とも仰せですから、「死の相」である「虚空」が「妙」にあたり、「生の相」である「霊鷲山」が「法」に該当します。さらに、「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」と仰せですから、現在の仏である釈迦如来は「生」を、過去の仏である多宝如来は「死」を表現していることになります。まさに、我々人間にとっては、生死こそ根本最大の課題ですから、「二処三会」を理解することは重要なポイントとなるのです。
樹冠人:つまり、仏の世界を民衆に分かりやすく示すためには、「虚空会」という舞台が必要であったのですね。
妙櫻華:「二処三会」は、「悟り以前の現実⇒悟りの世界⇒悟り以後の現実」の流れが表現されています。「虚空会の儀式」は時空間や煩悩・生死に束縛された現実の大地から、鎖をたたき切って、それらを見下ろす虚空の高き境涯に到達することを表現しているのです。
樹冠人:日蓮大聖人は、四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)で「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ」と仰せですが、これが虚空からの眼であり、仏法の眼であり、信心の眼なんですね。
妙櫻華:我々に当てはめれば、そのような境涯になるための修行が唱題行なのです。日蓮大聖人は、御義口伝で「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて信心に住する処が住在空中なり虚空会に住するなり」と仰せです。つまり、我々が御本尊に勤行・唱題している信心の姿が、そのまま「虚空会」に連なっているのです。
樹冠人:そして、重要なことは、勤行・唱題で得た仏界の生命力に基づいて、実践の場である社会・生活の現実へと戻るのです。つまり、「虚空会⇒後霊鷲山会」の流れに挑戦して、生活即信心の姿を確立することですね。
妙櫻華:まさしく、現代の仏教界は「虚空会」に当たる部分が、「象牙の塔」と化して、さも悟ったような顔をしている大僧正の姿は哀れな存在です。現代の衆生に何ら活力を与えることのできない宗派の乱立です。「煩悩即菩提」「穢土即寂光土」の発想自体も考えることもできない無力の仏教界が現実の姿なのです。法華経は、絶対に現実から離れないことが偉大な点なのです。
樹冠人:虚空会から見た穢土の娑婆世界も、今度は仏界を証明するための現実となります。苦しみや悩みも、信心を証明し、信心を強めるための挑戦の場です。まさに、「煩悩即菩提」「変毒為薬」の原理が展開されますね。
妙櫻華:つまり、汚れた九界の世界から仏界を開く、「九界即仏界」が「前霊鷲山会⇒虚空会」の流れです。そして、「仏界即九界」で「虚空会⇒後霊鷲山会」の流れが確立します。これはまさに、九界に勇んで救済者として飛び込んだ時、汚れた九界の穢土が、仏界に照らされた寂光土になっていく「穢土即寂光土」です。
樹冠人:まさしく、日女御前御返事の「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」と仰せの如く、「無常・苦・無我・不浄」のこの世界が、「常・楽・我・浄」の世界となる姿ですね。
妙櫻華:実は、日蓮大聖人の仏法と釈尊の仏法の違いを「二処三会」で説明すると、もっとわかりやすくなります。つまり、釈尊の仏法では、霊鷲山から虚空会に向かう姿、これは現実生活から仏の智慧の世界を希求する仏法の姿になります。虚空会で説かれた寿量品の文底に秘し沈められた「南無妙法蓮華経」を悟ることが目標になる訳です。
樹冠人:日蓮大聖人の仏法は、寿量品の文底に秘し沈められた「南無妙法蓮華経」を覚知して、現実生活へと向かう現実変革の軌道を確立するための仏法で、民衆の中に勇んで飛び込み慈悲の行動を展開する実践なんですね。
妙櫻華:つまり、我々の日々の勤行・唱題は、九界から仏界へ至るための修行で、「直達正観」により、それ自体が即仏界に連なっています。この修行が現実生活に妙法の智慧と慈悲を展開していく出発点となるのです。
樹冠人:御本尊に南無し、唱題していく信心の中に、二つの方向が同時に包含されているのです。この点が日蓮大聖人の仏法の卓越性なのですね。つまり、「南無=帰命」は妙法蓮華経に「帰して」いく、そして、妙法蓮華経に「命(もとづ)いて」行動していくこと、この帰・命の双方向が南無妙法蓮華経に含まれていることが素晴らしい点なんですね。
妙櫻華:日蓮大聖人は、上野殿後家尼御前御返事で「古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば六識にせよ」とも仰せです。そして、最後に「此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ」と締めくくられています。「心地を九識に」とは、「虚空会に住する」ことにあたり「信心に住する」ことです。「修行をば六識に」とは、どこまでも現実を離れてはいけないとの御謹言です。
梁塵秘抄が謳う法華経の世界
著作者:ウィンベル教育研究所 妙櫻華・樹冠人
平成二十五年(2013年)三月作成