梁塵秘抄『法華経序品』(ほけきょうじょぼん)五首
御義口伝【如是我聞の事】
樹冠人:序品第一において、御義口伝には「七箇の大事」が御教示されていますが、第一の場面の冒頭は決まり文句の「如是我聞」から始まりますね。
妙櫻華:「如是我聞」は、「是(かく)の如きを我聞きき」と読み、諸経の開巻に皆なこの四字を置いています。決まり文句の「如是我聞」ですが、法華経においては他の経典よりも一段と深い意義があり、日蓮大聖人の仏法にも深く関係する語句です。
樹冠人:御義口伝の第一如是我聞の事には、「文句の一に云く如是とは所聞の法体を挙ぐ我聞とは能持の人なり記の一に云く故に始と末と一経を所聞の体と為す。」とあり、天台大師(智顗・538~597年)と妙楽大師(湛然・711~782年)の解釈を引用されていますね。
妙櫻華:御義口伝では、「天台大師の法華文句に『所聞の法体』といっているが、所聞の聞とは、名字即、すなわち南無妙法蓮華経を信受する位を意味し、法体とは南無妙法蓮華経のことである。『能持の人』の能持とは、『能』の字に心を留めて、よくよく考えなさい。」とご指南され、次に「妙楽大師の法華文句記の一の『故始末一経』(故に始めと末と一経)の釈で、『始』とは『序品』を指し、『末』とは『普賢品』を指すのである。」また、「法体の体とは『心』ということで、法とは『諸法』を意味する。従って、法体とは『諸法の心』ということで、その諸法の心こそ、南無妙法蓮華経なのである。」とご指南されています。
樹冠人:次に、伝教大師は法華秀句の中で、慈恩の「法華玄賛」の邪義を責めて「法華経をほめたとしても、法華経の真意を知らなければ、かえって法華経の心を死(ころ)すことになるのである。」と打破りました。そして、「この『死』の字に心を留めて考えるべきである。」とご指南されました。
妙櫻華:つまり、法相宗の慈恩大師(基・窺基・632~682年)が法華経をほめたが、法華経を華厳経と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であると破折されたのです。
樹冠人:まさしく、「不信の人は如是我聞の聞には非ず法華経の行者は如是の体を聞く人と云う可きなり、爰を以て文句の一に云く『如是とは信順の辞なり信は則ち所聞の理会し順は則ち師資の道成ず』と、所詮日蓮等の類いを以て如是我聞の者と云う可きなり」と述べられていますね。
妙櫻華:この点が重要なポイントで、「法華経の真意を知らなければ、かえって法華経の心を死す」ことになり、日蓮大聖人は「日蓮大聖人及び門下のみが如是我聞の人である。」とご断定になっています。「不信の人は、如是我聞の聞にはならない。なぜならば、如是の体を聞かないからである。法華経の行者のみが、如是の体を聞く人といえるのである。」とご指南され、「ここをもって、天台大師の法華文句の一にいわく『如是とは信順のことばである。信ずることによって所聞の理、すなわち一念三千の法理を会得することができるのであり、順ずれば師弟の道を成じ、みずからも、仏界を現ずることができるのである。』と、」とご指南されているのです。
樹冠人:この「師資の道」とは、「師」は師匠を指し、「資」は「たすけ=弟子」の意味で、順ずれば「師弟の道」が成り立つとの意味ですね。
妙櫻華:「師弟不二の鼓動」を感じることができる一文でもあります。「如是我聞の心」とは、「師弟不二の心」でもあるのです。つまり、その心が仏法伝持の極意で、一切衆生を救おうとする仏の一念と、その教えを体得し弘めようとする弟子の一念が、響き合う「師弟不二」のロマンが、「如是我聞」の一句に結実したような気がします。
樹冠人:最後になりましたが、「師弟の道」といえば、日月燈明仏の後を継いで、弟子の妙光菩薩が法華経を説き、日月燈明仏の八人の王子をはじめ人々を成仏させていくドラマも印象的ですね。
妙櫻華:日月燈明仏が説いた究極の教えも法華経です。文殊菩薩が過去世に出会った日月燈明仏だけではなく、それ以前にも二万の日月燈明仏が存在したとされています。実はそれだけではなく、化城喩品では大通智勝仏が、常不軽菩薩品では威音王仏が、究極の教えである法華経を説いているのです。そして、釈尊がこれから説く教えも法華経です。
樹冠人:法華経は、私達が勉強している八巻二十八品の「釈尊の法華経」だけではなく、膨大な量の法華経が説かれたことになりますね。
妙櫻華:ここが最大のポイントで、「日月燈明仏の弟子の妙光菩薩」「大通智勝仏の弟子の十六人の菩薩」「威音王仏の弟子の不軽菩薩」が、仏の入滅後に法華経を説いています。このことから考えると、法華経は「滅後のための教え」であり、その思想を師匠から弟子へと伝持する究極の哲学なのです。
樹冠人:つまり、法華経の本質は、「極理は一つ」だけれども、「表現形態に種々の違い」があり、全てが法華経なんですね。
妙櫻華:核心となる仏法の思想哲学が、編纂当時の時代状況や思想状況に応じて、時代が希求し、時代を感じて釈尊直説の思想哲学が出現したのではないか。つまり、これを仏法用語では「感応道交」(かんのうどうこう)と言い、衆生がよく仏の応現を感じ、仏が衆生の機根に応じて、互いに通じ合ったのです。
樹冠人:「釈尊滅後の衆生のため」「末法の衆生のため」そして、「一切衆生のため」に法華経は説かれたのですね。だから、日蓮大聖人は、末法の中でも「大聖人御自身のために法華経は説かれた」と仰せなんですね。
妙櫻華:法華経では、仏がこの世に出現したのは、「滅後の衆生」特に「末法の濁世の衆生」を救うことが最大で究極の目的であると説かれています。まさに、日蓮大聖人は法華経を身読されて、全ての民衆を幸福にする法華経の秘法を、「南無妙法蓮華経」として顕し弘められたのです。
樹冠人:仏とは、自らの生命の真実を悟った人であり、全ての人間の生命の真実を覚知した人ですね。法華経は、その智慧を悟った人、つまり、日蓮大聖人が末法に御出現されることを「予言」した経典ということも可能となりますね。
妙櫻華:法華経の精神は、「師弟不二」が魂であることがよく理解できたと思います。そして、釈尊の第一声が何であったのか?が、早く知りたくなるような序品の構成は、絶賛したい思いです。
梁塵秘抄が謳う法華経の世界
著作者:ウィンベル教育研究所 妙櫻華・樹冠人
平成二十五年(2013年)四月作成