梁塵秘抄『法華経序品』(ほけきょうじょぼん)五首
梁塵秘抄『法華経序品』五首の解説
樹冠人:「梁塵秘抄」が成立した平安朝末期の当時の日本は、像法時代(日本では永承六年・1051年をもって像法時代が終るとされた)が終わり、末法時代に入った時期でもありました。「梁塵秘抄」の勅撰者である後白河法皇も「釈尊の仏法の力が及ばなくなる末法という時代」に対する危機感があったような気がしますね。
妙櫻華:また、後白河法皇は反面教師である阿闍世王に対しての関心が高かったと思われますが、並々ならぬ力の入れ方で、「梁塵秘抄」の巻二を編纂したことと思います。なぜなら、末法時代を生き抜くための智慧が法華経に満載されていたからです。
樹冠人:梁塵秘抄の序品の五首で謳われている瑞相は、「空より曼陀羅曼珠の華が降り」「栴檀沈水満ちにほひ」「大地は六種に動き」「佛の白毫光は月の如く世を照らし」と表現されていますが、全て目に見える瑞相を表現して謳っていますね。
妙櫻華:前述したように、第二の場面である瑞相は衝撃的であったと思います。天から曼陀羅華や曼珠沙華が仏や衆生の上に降り、大地が六種に震動するなどの現象が示されましたが、このことによって、その場の衆生はかつてない気持ちになって、歓喜して一心に仏を見ます。すると、仏は眉間の白毫から光を放ち、その光が東方の一万八千の世界をくまなく照らし出しました。
樹冠人:かつて無いこの現象を、平安朝の人々も驚いたことでしょうね。その光で照らし出された世界では、それぞれの国土の仏が説法して、その教えを受けて仏塔を供養した様子が映し出されましたね。まさしく、法華経そのものが壮大な叙事詩・叙情詩・叙景詩の様相を呈していますね。そして、この現象の理由を具体的に説明したのが第三の場面で、「師弟不二」の精神を説くわけですね。
妙櫻華:つまり、すべての仏が妙法を根本として成仏して、この根源の一法である妙法を説き顕すのが法華経だったのです。それだけ遠大で感動的な世界が展開されるわけですから、平安朝の人々の心も捉え「なるほど法華経を聞かなければ」と納得したことも理解できます。
樹冠人:第一首の「空より花降り地は動き 佛の光は世を照らし 弥勒文殊は問ひ答へ 法花を説くとぞ豫て知る」には、これから説かれる大法である法華経を聞くことができる大きな期待が込められているような気がしますね。
妙櫻華:この一首は、序品のドラマの流れが起承転結で整っています。結論部分では、文殊師利菩薩は、過去世の体験を語り、かつて日月燈明仏という過去仏が、同じような瑞相を示して法華経を説いたことを伝え、「だから今の釈尊も、きっとこれから法華経を説くだろう。」と答えたことを謳っています。
妙櫻華:なお、この時代の古典籍には、現代に通用している「法華経」と「法花経」とを使い分けているように思えます。つまり、謌を謳う場合や物語を物語る場合などには「法花経」が常用され、経典そのものを表す場合は「法華経」と明記したように思えるのです。
樹冠人:第三首の「法花経弘めし初には 無数の衆生その中に 本瑞所々に雲晴れて 曼陀羅曼珠の花ぞふる」は、第一首とは対照的に、起承転結が逆転して倒置した方法で表現されていますね。この第三首を中心に対称関係が構成させて掲載されているのも特徴でもありますね。
妙櫻華:特に、第五首の「弥勒菩薩はあはれなり 天人大会の前にして 昔の佛の有様を 文殊に問ひつつ説いたまふ」は、なかなか皮肉が利いた謌に仕上げられています。弥勒菩薩は未来に仏と成ることを約束された菩薩であったのですが、その菩薩が「昔の仏の有様」を知らなかったのです。列座した大衆は、弥勒菩薩のこの質問の方が不思議であったかもしれません。と共に、この謌の作者も疑問を持ったことでしょう。
梁塵秘抄が謳う法華経の世界
著作者:ウィンベル教育研究所 妙櫻華・樹冠人
平成二十五年(2013年)五月作成