『攷証今昔物語集』(こうしょうこんじゃくものがたりしゅう)

    


タイトル:『攷証今昔物語集』(こうしょうこんじゃくものがたりしゅう)

著者:芳賀矢一纂訂

出版書写事項:天竺震旦部:大正二年(1913年)発行
       本朝部:昭和四十五年(1970年)復刊発行

形態:三十一巻全三冊 (B5版)

附録:本文補遺 攷証補遺 難訓字解

纂訂者:芳賀矢一

発行者:合資会社冨山房

代表者:坂本嘉治馬

印刷者:高桑基次

発行所:合資会社冨山房

目録番号:nihon-0020001



攷証今昔物語集』の解説

 「今昔物語集」は、平安時代末期の十二世紀の白河法皇や鳥羽法皇の院政期に成立したと推定されている日本最古の説話集である。各説話の各条が「今ハ昔」の書き出しで始まることから呼ばれた書名であるとの由来である。古くは「宇治大納言物語」「宇治拾遺物語」とも呼ばれた経緯がある。

 白河法皇(天喜元年・1053~大治四年・1129)は、藤原摂関家の権勢を弱めることに一生を捧げた天皇で、院政を実質的に確立した天皇でもある。また、北面武士の重用により武家の台頭の起因を作った天皇でもある。平安京洛外の東側に位置する白河の地に「六勝寺」(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と総称される六つの巨大な寺院を建立し、中心寺の法勝寺に御所を構え、白河は院政の中心地として栄えた場所である。現在では京都の岡崎公園一帯(平安神宮・京都市動物園の周辺)の地である。なお、後世には白河親政を模範にして上皇・法皇を「治天の君」と呼ぶようになる。

 鳥羽法皇(康和五年・1103~保元元年・1156)は、父の堀川天皇の死後、五歳で即位して実権は白河法皇が握った。平安京朱雀大路の南側延長線上に位置する地に鳥羽離宮を造営して、白河・鳥羽・後白河の院政の舞台となった。現在の近鉄竹田駅周辺に離宮が存在し、安楽寿院は仏堂の後身である。この地は桂川と鴨川の合流点でもあり交通の要衝でもある。鳥羽天皇は、白河法皇崩御後に東大寺で受戒し法皇となり、崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の三代時代の実権を掌握した。なお、鳥羽法皇崩御の直後に勃発した保元の乱は有名である。

 「今昔物語集」の構造は、巻第一から巻第五の天竺(インド)、巻第六から巻第十の震旦(中国)、巻第十一から巻第卅一の本朝(日本)の説話を集め、全三十一巻にまとめてあるが、巻第八・巻第十八・巻第廿一は欠巻となっていて、「今昔物語集」は未完の説話集である。

 今回紹介する「攷証今昔物語集」は、芳賀矢一が文献学に基づいて精細に編纂して、「今昔物語集」の全貌を初めて発表した書籍である。

 芳賀矢一(はがやいち・慶應三年・1867~昭和二年・1927)は、国語教育に力を注いで「国定教科書」の纂定に関った。文献学を駆使して近代国文学の基礎を作った国文学者である。東京帝国大学では夏目漱石が講師をしていた時の教授でもある。また、晩年は國學院大學の学長を勤めた。

 この書籍は、岡本保孝の「今昔物語出典考」を基礎として、「佛祖統紀」「経律異相」「三宝感応要略録」「太平広記」「淵鑑類函」等を参考に、東京帝国大学所蔵の「今昔物語集」書写本を定本にしている。現代においても、「今昔物語集」を始め説話集を学ぶ者は必ずこの偉業と格闘する重要な書籍でもある。

 この書籍の編纂意図は、「純粋の日本説話と思って居るものの中に、よく調べて見れば、外国伝来のものが種種存在するのである。もとより又話の暗合といふことも注意しなければならぬ。之を比較研究して行くのが、説話学者の事業である。本書は即ち其の考証の幾分の資料を供する積で編纂したのである。(中略)殊に其の感を深うするのは本朝世俗部の説話であって、これは僅かに本書のみに発見せられるものが多い。一方から言へば、これが又本書の価値である。」と述べている通りである。

 まず、巻第一から巻第四までは「釋迦如来人界宿給語」から始まる仏教説話で、巻第五は非仏教説話や釈迦の前世譚を含んでいる。巻第六から巻第九も仏教説話で、巻第十は中国史書などの奇異譚である。そして、巻第十一からは本朝仏法部と本朝世俗部で構成されている。

 天竺部は、釈迦の一代記から始まって、釈迦が内院を出て、摩耶夫人の腹に宿る所から、誕生・出家・苦行・降魔・成道・教化・涅槃に至るまでの一代の行跡が神話化された形で記載された仏陀伝である。そして、この仏陀伝によって、日本では聖徳太子を始めとして、後の高僧たちの伝記は皆これと同じ形式で記載されることになる。そして、この仏陀伝が日本僧侶のお説教の元ネタになっているのである。

 巻第一から巻第三は、仏陀の一生を説明すると共に、仏法を貴ぶよう、人生の脱離すべきを説き、或るいは王者を、或るいは貴女を、或るいは老いといわず、幼いといわず、種種の人物、種種の境遇を挙げて、すべて仏徳の広大無辺なるに帰著させている。また、巻第四では、仏滅後弟子の阿難が代表となって経典を結集する話に始まって、釈迦涅槃の後、仏法保護者と仏法妨害者の事跡を挙げている。

 この書籍の序論には、「要するに仏教説話の根底の訓戒となって居るのは即ち因果応報の倫理思想で、これは従来の日本人の夢にも知らぬ事であった。」とある。

 そして、巻第五については釈迦が生まれぬ前の過去の話で「ジャータカ」について触れている。同じく序論では、「此の輪廻転生といふことも、日本人のこれまで少しも知らなかった事で、当時の国民は少からぬ驚異の念に打たれて、此等の話に耳を傾けたことであったらう。」とも述べている。

 震旦部の巻第六と巻第七の二巻には、仏法に関係した説話を収めている。先ず仏法の中国に伝来する初めから、その弘通するに至る説話を次第して、その間の経典を将来した人、仏像を造立した人、経文を書写し、読誦し、受持した人々の蒙った実験のあらたかな説話をたくさん集めている。

 また、巻第九には震旦部孝養に孝子伝説を採用し、母の孝養の為に子を埋めようとした二十四孝の一人で郭巨を始めとして、孝道を誇大表現した話が多い。巻第十は主として中国の史乗・諸子・小説等にあらわれた巷談を採用している。

 やはり、興味深いのは本朝部である。以下に各巻の概略を掲載する。

 巻第十一 聖徳太子の仏法弘通から仏法各派伝来の事、諸大寺建立の事

 巻第十二 各斎会の由来、仏像、経典の功徳

 巻第十三 持経者、読経者の談、特に法花読誦の功徳

 巻第十四 法花経の功徳、特に生前談及び誹謗者の悪報

 巻第十五 僧俗の往生談

 巻第十六 観音霊験記

 巻第十七 地蔵霊験記

 巻第十八 欠巻

 巻第十九 諸人出家談、その他仏教に関する雑話

 巻第二十 天狗、狐、蛇等、その他冥途に行って帰来する話

 巻第廿一 欠巻

 巻第廿二 藤原大臣家の話

 巻第廿三 強力の話

 巻第廿四 芸術談

 巻第廿五 武勇談

 巻第廿六 民間の宿報談

 巻第廿七 霊鬼

 巻第廿八 滑稽談

 巻第廿九 盗賊談

 巻第三十 雑談、主に男女の情事

 巻第卅一 雑談、外国の話、旅行の話


 序論の後半で、芳賀矢一は「種種の説話が文学に入ることは、鎌倉以後に多いことであるが、これ等は本書によって、幾分かまで、其の淵源に遡る目安が得られるのである。何にせよ、支那印度思想の浸染して来た平安時代殊に法華信仰の盛な時代の面影を、本書によって十分にしのぶことの出来るのは、我が文化史の上、及び比較説話學の上に大きな価値の存在する所以である。」と本書の価値存在を強調している。

 そして、この「今昔物語集」の作者については、古来から源隆国(みなもとのたかくに・寛弘元年・1004~承保四年・1077)という説が存在している。本朝書籍目録に「宇治拾遺物語廿巻源隆国作」とあり、順徳天皇の「八雲御抄」には宇治大納言とあって、隆国と記されてある。この隆国は、権大納言俊賢の次男で西宮左大臣高明の孫にあたる権大納言の醍醐源氏で、後冷泉天皇の御世の関白頼通の女が立ち皇后となったときの皇后宮大夫である。宇治に別荘を構えて宇治大納言と呼ばれた。

 また、「宇治大納言物語」「宇治拾遺物語」の書名に触れて、現代に「宇治拾遺物語」と呼ばれた書籍は、総計百九十六段の内、八十五段は「今昔物語集」から採用された事実を披瀝し、同名同一書であることを断定した。また、「宇治大納言物語」も本書の一名を名乗っているだけで、鎌倉時代の著作であると断定し、同様に、「十訓抄」「古今著聞集」などもよく似たものであると追記した。

【参考】電子化「攷証今昔物語集」(やたがらすナビ




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十五年(2013年)一月作成