『日蓮上人一代圖會』(にちれんしょうにんいちだいずえ)

    


タイトル:『日蓮上人一代圖會』(にちれんしょうにんいちだいずえ)

上段:昭和十年(1935年)発行
   著者:松亭金水
   形態:六巻 全一冊(B6版)
   発行兼編輯者:富永龍之助
   印刷者:今成喜朔
   発行所:富永興文堂

下段:昭和十三年(1938年)発行
   著者:中村経年
   形態:六巻 全一冊(B6版)
   編輯者:平楽寺編纂局
       井上松翠
   発行兼印刷者:井上治作
   印刷所:平楽寺書店

目録番号:soka-0020003



日蓮上人一代圖會』の解説

 『日蓮上人一代圖會』は、日蓮大聖人の御一生を図会(図絵)を駆使して表現した一代記で、安政五年(1859年)に成立した書籍で、36枚の図絵が挿入され、全六巻四十四条で構成されている。

 安政期には浮世絵も全盛期になり、浮世絵の技術をふんだんに活用した絵図を駆使して物語風に大聖人のご事績を表現していることが特徴的である。

 今回の『日蓮上人一代圖會』は、安政五年(1859年)に成立した版心を基にして、昭和十年に富永興文堂(現、株式会社新星出版社)から刊行されたものと、昭和十三年に平楽寺書店から刊行されたものを紹介する。

 なぜ二冊を紹介するかと言えば、著者名と挿入画家名の違いの対比に加え、不受不施派と身延派での出版事情が窺われるからである。

 富永興文堂版は安政期の小湊誕生寺の現住日琢の序と日像の後醍醐天皇法華宗号の綸旨で終わる不受不施派の書籍と思われ、平楽寺書店版は久遠寺住持日裕の霊元天皇宸翰大菩薩号副書が追記された身延派の書籍と思われる。

 不受不施派とは、小湊誕生寺や中山法華経寺や池上本門寺など不受不施義(ふじゅふせぎ)を主張する中心的な本山の連合派である。不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、不施とは法華信者以外の供養を施さないことである。

 江戸期に入ると幕府は不受不施派の寺請を禁止し不受不施派の追放が完璧なものとなる。ただし、小湊誕生寺や中山法華経寺や池上本門寺などの不受不施派の交流は続いたので、富永興文堂版では小湊誕生寺と池上門流の合作の体裁がとられている。

 そして、上段写真の通り富永興文堂版では著者が松亭金水で挿入画家が葛飾北斎(かつしかほくさい・宝暦十年・1760?~嘉永二年・1849)とあり、下段写真の平楽寺書店版では著者が中村経年で挿入画家が葛飾為斎(かつしかいさい・文政四年・1821~明治十三年・1880)となっている。

 まず、両著で共通している編纂者の中村経年こと松亭金水(しょうていきんすい・寛政九年・1795~文久二年・1863)は、江戸時代後期の人情本作家で、曲亭馬琴(きょくていばきん・明和四年・1767~嘉永元年・1848)の版下の清書をしたこともあり、為永春水(ためながしゅんすい・寛政二年・1790~天保十四年・1844)の弟子になり代作もして、天保の改革で為永春水が筆を絶ったあと、勧善懲悪的な人情本を書き、人情本末期の代表的作家となった。

 次に、挿入画家であるが、富永興文堂版は葛飾北斎と平楽寺書店版では葛飾為斎と名前が違うが、安政五年(1859年)に成立した時点では北斎はこの世に生はなく、実は為斎は北斎の死後に北斎を名乗っていることが判明しているので、安政五年の成立時点での挿入画家は葛飾為斎であることに間違いはないと思う。

 葛飾北斎(かつしかほくさい・宝暦十年・1760?~嘉永二年・1849)は、江戸時代後期の浮世絵師で化政文化を代表する一人で、代表作には『富嶽三十六景』や『北斎漫画』が有名で、世界的にも著名な画家である。

 葛飾為斎(かつしかいさい・文政四年・1821~明治十三年・1880)は、江戸時代後期の浮世絵師で、葛飾北斎の晩年の門人である。画風は北斎に酷似しており、海外輸出向けの浮世絵を多く描いて利を得たといわれている。

 葛飾北斎の二代目について、『浮世絵師伝』には「二代北斎を名乗りし者二人あり」とあり、橋本庄兵衛(橋本北斎)と鈴木北斎辰政が有名であるが、私こと樹冠人の考えでは、葛飾北斎の死後に北斎を名乗った者は門人に数名存在していたと思っている。

 なぜならば、初代葛飾北斎は生涯に30回も頻繁に改号している如く、「北斎」の号に対する執着はなく、門人に号を譲ることを収入の一手段としていたことから推測すれば、何人にも号を使用する許可を出していたと考えられるのである。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   令和二年(2020年)七月作成