『海国兵談』(かいこくへいだん)

    


タイトル:海国兵談(かいこくへいだん)

著者:林子平

序:工藤球卿(工藤平助)

出版書写事項:江戸期写本

形態:四巻全一冊 和装大本(B5版)

目録番号:win-0060001



海国兵談』の解説

 今回紹介する「海国兵談」は、閉鎖された社会を見聞してきた林子平(元文三年・1738~寛政五年・1793)が「海防」の急務を力説した書籍である。江戸時代末期には、幕府批判を展開した軍事に関する書籍の出版を引き受ける版元は皆無で、自ら版木を彫って仙台で自費出版した書籍でもあった。

 また、消極的外交政策を推進した寛政の改革が始まると、危険視された「海国兵談」は発禁本と認定され、版木も没収処分となる。しかし、子平は怯むことなく書写本を作成して流布させた。この書写本が書写本を生み現代に伝わったものである。私こと樹冠人の所蔵している書籍は第一巻から第四巻までを掲載した書写本の一冊である。版本も希少価値があるが書写本も大変貴重な江戸期の書籍である。

 六無齋こと林子平は、幕臣の次男坊として江戸に生れた。子平の青年期には、姉の縁で兄と共に仙台藩の禄を受けた。しかし、子平は教育政策や経済政策を進言したが受け入れられず、禄を返上して「無禄厄介(むろくやっかい)」の身の上となり、兄の世話を受けて部屋住みとなる。

 子平は部屋住みの利点を有効に活用して、仙台では工藤球卿こと工藤平助(享保十九年・1734~寛政十二年・1801)に学び、全国を行脚して江戸・長崎で学び、大槻玄沢(宝暦七年・1757~文政十年・1827)・宇田川玄随(宝暦五年・1756~寛政九年・1798)・桂川甫周(宝暦元年・1751~文化六年・1809)などの医学者・蘭学者と交友関係を結んだ。

 また、子平は後に、高山彦九郎(延享四年・1747~寛政五年・1793)と蒲生君平(明和五年・1768~文化十年・1813)と共に「寛政の三奇人」と呼ばれた逸材であった。なお、「奇人」とは「稀に見る優れた人」という意味で、奇人変人の意味ではない。

 同時代を生きた頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)も、自ら部屋住みの境遇を選択して江戸幕府の批判著作を書き続けた。子平や山陽の生き様は、当時のような家長制度や閉鎖された社会で、「家」に拘束されないで見聞を広め学問する困難さを知る好例である。また、当時は現代とは違う社会が形成されていたようで、「無禄厄介な奇人」を育む環境も存在していたことが想像できる。

 序を寄せた工藤球卿こと工藤平助(享保十九年・1734~寛政十二年・1801)は、仙台藩の藩医で「赤蝦夷風説考」の著者でもあり、林子平の青年期に大きな影響を与えた人物である。平助の交流関係は広く数多くの来訪者を迎え、子平は、杉田玄白・前野良沢・桂川甫周などから蘭学・医学を伝授され、高山彦九郎・谷万六・村田春海など偉才との交流も有名であった。また、前野良沢の弟子である大槻玄沢との交流は親戚同様の付き合いであったと伝わっている。林子平の交流関係も工藤平助の恩恵を得ているといえる。

 「海国兵談」は、全十六巻で構成され、

 「水戦」「陸戦」「軍法並物見」「戦畧」「夜軍」「撰士附一騎前」
 「人数組附人数扱」「押前陣取備立並宿陣野陣」「器械並小荷駄付粮米」
 「地形城制」「城攻附攻具」「籠城附守具」「操練」
 「武士之本躰並知行割人数積附制度法令之大畧」
 「馬之飼立仕入様附騎射之事」「畧書」の目録となっている。

 また、この書籍の特徴は、「大銃之図」「大弩之図」「石弾之図」「桂弓之図」「竹束船之図」などの図を駆使して具体的に「海防」の方法を提示している点である。

 そして、子平は目録の最後に「初巻より十五巻までは水陸戦闘の事を述べたり、略書は文武相兼て国家を経済し、食を足し、兵を足しの義を言て大将の心得とし兵の心印とす、読者身に取って工夫を附くべし」(現代訳)と記載した。

 その後の六無齋こと林子平は、仙台の兄の下で蟄居謹慎(禁固刑)となり蟄居中に死去した。なお、六無とは「親も無し・妻無し・子無し・版木無し・金もなけれど・死にたくも無し」との心境を自らの号に託したものである。

 その後の江戸時代の幕末は歴史が証明したように、江戸幕府は各国の「異国船の来航」「通商条約の要求」など、子平が死を懸けて訴えた「海防の急務」を痛感することとなる。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)九月作成