『江戸名所記』(えどめいしょき)

    


タイトル:『江戸名所記』(えどめいしょき)

編輯者:浅井了意

出版書写事項:昭和十五年十二月四日(1940年)印刷
       昭和十五年十二月七日(1940年)発行

形態:全一冊(文庫版)

校註者:守隨憲治

発行者:山本三生

出版者:森島金治郎

發兌:改造社

目録番号:win-0090005



江戸名所記』の解説

 『江戸名所記』(えどめいしょき)は、浅井了意(あさいりょうい・慶長十七年・1612~元禄四年・1691)によって著された江戸を紹介する名所記である。著者の了意は先行して東海道を題材とした『東海道名所記』(後述参照)も著しているが、京都出身で江戸に滞在歴がある仮名草子作家でもあった。

 了意の本名は不明であるが、号は了意のほか松雲・瓢水子・羊岐斎なども使用した。父が本照寺の住職を追われ浪人し、容膝に師事して仏道・儒学・神道の三教に通じたと伝わる。後に、京都二条の浄土真宗大谷派の本性寺昭儀坊の住職となり昭儀坊了意と名乗った。

 了意は、仏教書や古典注釈書などを著したが、『堪忍記』『可笑記評判』『本朝女鑑』『京雀』など多岐にわたる著作も行い、『御伽婢子(おとぎぼうこ)』などは怪奇物の祖として仰がれ後世に大きな影響を与えた。仮名草子の『浮世物語』は浮世坊が諸国を漫遊する物語であるが、仮名草子から浮世草子へ移り変わる作品として注目され、仮名草子の最後を飾る作家ともいわれている。また、『北条九代記』の作者ではないかとも推定されている。

 『江戸名所記』の刊記には「寛文二年壬寅五月日」とあり、寛文二年(1662年)の執筆と考えられるが、明暦の大火(明暦三年・1657年)の復興後の江戸の繁栄ぶりを京坂神の人々に知らせる意図も窺える。かつては『慶長見聞集』などの江戸名所集は存在しているが、中川喜雲著の京都初の名所記『京童』に影響を受けており、本格的に江戸の名所・寺社仏閣を紹介したのは『江戸名所記』が江戸時代では早い刊行であった。ただし、実用的な江戸名所案内というよりも京坂神の人々に江戸全体の名所の歴史や風俗を紹介したもので、多くの挿絵を入れて江戸についての地誌的な書籍となっている。

 中川喜雲(なかがわきうん・寛永十三年・1636~宝永二年・1705)は、通称は吉左衛門重治、山桜子とも号した仮名草子作家で俳諧師でもあった。父である中川仁右衛門重定の出身は丹波桑田郡の郷士であったので喜雲も仕官したが、京都で医者修業をする際に若くして松永貞徳の門に入り、貞徳没後は、その後継者であった安原貞室に学び、同人撰の「玉海集」には父重定は1句、喜雲は6句入集している。小堀遠州とも交わり、狂歌や俳諧をよくする風流人でもあった。著書に『京童』以外にも『鎌倉物語』『京童跡追』『案内者』の名所記類、咄本の『私可多咄 (しかたばなし) 』等がある。

 また、私こと樹冠人としては、『江戸名所記』が著された当時の江戸の風俗が詳しく掲載されているので風俗資料としては参考となるが、刊行を焦った感が窺われ、挿絵の配置などに違和感を感じたり、了意が京都出身でもあったので京の風俗が混じり込んていることなどが気になっている。

 『江戸名所記』は、全七巻で構成され名所八十箇所に纏められ、特に、「巻一から巻六」までは地域別の統一感があるが、「巻七」については「小石川・渋谷・金杉村・白山町・橘樹郡・日比谷・王子・愛宕山・吉原」の順番で掲載され地域がばらばらで、雑にまとめられた感があるが、了意の特別な事情がある場所をまとめているようで、何かの意図があるのではないかとも気になっている。特記すべきは、現在でも東京の各名所のホームページなどでは「『江戸名所記』では〇〇〇と紹介されている。」と引用され記載されていることが多いことである。

 今回紹介する改造文庫に収録された『江戸名所記』の各巻の名所名をそのまま掲載し、気になった項目を詳細しておく。

【巻一】には、「武蔵国・江戸御城・日本橋・東叡山寛永寺・牛天神・不忍池・忍岡稲荷・神田広小路薬師・湯嶋天神・神田明神・谷中清水稲荷・谷中法恩寺・谷中善光寺・谷中感応寺・新堀村七面明神」が紹介されている。

 「江戸御城」は、京都二条城と同じく本丸天守が再建されていない二大城郭である。「江戸城」は太田道灌が築城し徳川家康が修築した城である。東に平川・西に東海道・北に富士山・南に江戸湾を備えた大吉地の江戸の町構造は、平安京の「四神相応」の考えを参考に構築された。実は、江戸城大手門の向きなどで富士山を北と考えて築城した構造であることがわかるが、このことは表鬼門を守る東の比叡山「東叡山寛永寺」と裏鬼門を守る増上寺(巻四参照)の建設位置でも明らかである。

 太田道灌(おおたどうかん・永享四年・1432~文明十八年・1486)は、摂津源氏の流れを汲む室町時代後期の武将で謀殺された悲劇の武将でもあった。道灌は、関東地方が東軍の古川公方陣営と西軍の関東管領陣営に分断されて戦う折に、関東管領陣営側として房総の有力武将の千葉氏を抑えるために、江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した。道灌の最期は、入浴後に風呂場から出たところを曽我兵庫に襲われ斬り倒され、死に際に「当方滅亡」と言い残したといわれている。まさに、自分亡き後の扇谷上杉家に未来はないという予言であるが、後には、北条早雲が関東に進出して早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、扇谷上杉の家系は駆逐されることになった。

 なお、寛永寺・神田明神と増上寺(巻四参照)を結ぶ直線と、浅草寺(浅草観音・巻二参照)と日枝神社(山王権現・巻六参照)を結ぶ直線とが交差する地点に江戸城が位置している。

 「東叡山寛永寺」の開山初代住職は天台宗の慈眼大師こと南光坊天海である。「寛永寺」は表鬼門を守る東の比叡山と呼ばれ、徳川将軍家の祈祷所で菩提寺でもあり、江戸時代には皇族が歴代住職を務め、日光山・比叡山をも管轄する天台宗の総本山として江戸時代には強大な権勢を誇った。

 南光坊天海(慈眼大師・生年不詳~寛永二十年・1643)は、江戸幕府建設当初の朝廷・宗教政策に深く関与した天台僧である。天海は百歳を超える長寿であったといわれているが、江戸幕府開幕以前の前半生の記録は皆無である。徳川家康は神号や葬儀に関する遺言を天海や以心崇伝らに託し、天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、結局天海の意向が通り家康の神号は「東照大権現」と決定され、家康の遺体は久能山から日光山に改葬された。

 「神田明神」は、『江戸名所記』には「神田明神は平将門の霊社で、藤原秀郷に討たれた平将門の首がこの地に落ち京都に送って獄門にかけたが、祟りをしたためにある人が歌を詠んだところ祟りがおさまった。そこで、江戸の地に首を送り託宣により神社を建てた。」と記載されている。なお、「神田明神」は江戸総鎮守として崇敬され、神田祭は浅草寺の三社祭・日枝神社の山王祭と共に江戸三大祭として有名で、江戸城の表鬼門と裏鬼門を浄める意味づけがあったようである。

【巻二】には、「駒込村吉祥寺・駒込村富士社并不寝権現(根津権現)・西新井惣持寺・浅草観音・浅草明王院付嫗淵・石浜村総泉寺付妙亀山・浅草金竜山付真土山・浅草三十三間堂・東本願寺・浅草報恩寺・浅草日輪寺・海禅寺・浅草薬師・浅草清水寺・浅草誓願寺」が紹介されている。

 「駒込村吉祥寺」は、太田道灌が江戸城築城の際に井戸を掘ったところ「吉祥増上」との銅印が発見され「吉祥庵」と称したが、明暦の大火で延焼し「諏訪山吉祥寺」として本駒込に移転した。この「吉祥寺」は曹洞宗江戸三箇寺の一つで、僧侶の養成機関としての栴檀林を備え、多くの学寮が建てられ学僧が学び、官学の昌平坂学問所と肩を並べる教育機関であった。その機能は駒澤大学に継承され今に至っている。ちなみに、現在のJR中央線の「吉祥寺」の所在名称は、梅檀林を備えた「吉祥寺」が移転した後に残された門前町の人々が武蔵野の地を開拓して移住し名残惜しみ「吉祥寺」と名付けたものである。

 「浅草観音」は、推古天皇三十六年(628年)に角田川(隅田川)から示現した聖観世音菩薩を観音堂を建立して本尊として納めたのが「聖観音宗金龍山浅草寺」である。前述したように、寛永寺・神田明神(巻二参照)と増上寺(巻四参照)を結ぶ直線と、浅草寺(浅草観音)と日枝神社(山王権現・巻六参照)を結ぶ直線とが交差する地点に江戸城が位置している。

 「江戸三十三間堂」は、京都東山の蓮華王院三十三間堂での通し矢の流行に目をつけて、弓師備後という者が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立し、記録達成者は「江戸一」を称した。しかし、明治五年(1872年)に江戸三十三間堂は破壊された。

 「浅草清水寺」こと江北山宝聚院清水寺は、今を去る1180数年余り昔の淳和天皇の時、天下に疫病が大流行し悲しまれた天皇は天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主であった慈覚大師に疫病退散の祈願をご下命され、慈覚大師は、京都東山の清水寺の観音に倣って、自ら一刀三礼して千手観音一体を刻み武蔵国江戸平河の地に開山した。

【巻三】には、「神田天沢寺・浅草町西福寺・森田町大六天・浅草焔摩堂付十王・浅草駒形堂・浅草文珠院・角田川(隅田川)・西葛西浄光寺薬師・葛西郡東照院若宮八幡・東葛西善導寺(善通寺)・牛島業平塚・西葛西本所大神宮(船江神社)・牛島太子堂(如意輪寺)・深川泉養寺付神明」が紹介されている。

 「神田天沢寺」は、第三代将軍徳川家光の乳母として有名な春日局の隠棲所として建てられた隠居寺である。『江戸名所記』には「隠元禅師が京都から江戸に来た時は、この寺に七十余日逗留したが、貴賎を問わず僧も俗人も参拝に訪れて市のようになった。」と記載されている。隠元禅師は、インゲン豆でも有名であるが、京都の黄檗山萬福寺の住職として有名であった。なお、明治期には井上円了が東洋大学の前身である哲学館を寺内に創設している。

 「浅草駒形堂」は、浅草寺発祥の霊地に建つ草堂である。駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ草堂で、推古天皇三十六年(628年)に浅草寺の本尊となる聖観世音菩薩が角田川(隅田川)に示現し上陸していったんは草堂に祀られたという。

 「牛島業平塚」は、『江戸名所記』刊行当時までは、在原業平は二条后との不倫事件により東下して牛島で死亡して墓塚を造くられたと信じられていたようである。添付挿絵から推測して「舟形式古墳」と命名した民俗学者も存在したが、残念ながら「牛島業平塚」は現存していない。

【巻四】には、「廻向院・三俣・永代島八幡宮・禰宜町浄瑠璃・禰宜町歌舞妓・西本願寺(築地本願寺)・増上寺」が紹介されている。

 「廻向院」は、『江戸名所記』によれば「明暦の大火(明暦三年・1657年)の惨状を詳細に記述し、武蔵と下総の境である牛島の堀を埋め立てて塚を築いて、明暦の大火の死者を埋葬し、寺を建て諸宗山無縁寺回向院と名付けた。」と記載されている。

 「禰宜町」は、椙森神社の禰宜が住んでいた地で、現在の日本橋堀留町あたりの町名である。この地域には、芝居小屋の猿若座が存在し、浄瑠璃・歌舞伎・曲芸など色々と見物するものがあり、傾城町吉原(巻七参照)の隣接地でもあった禰宜町は賑やかな歓楽地であった。また、この時代には上方で職を失った歌舞伎役者などが江戸に移り住むようになり、『江戸名所記』では、大坂庄左衛門・小舞庄左衛門・杵屋勘兵衛・坂東又九郎・玉川千之丞などの名を挙げている。

 「増上寺」は、表鬼門を守る東の比叡山「東叡山寛永寺」(巻一参照)とは真裏の裏鬼門を守る寺院で、第二代将軍の秀忠を始め第六代の家宣・第七代の家継・第九代の家重・第十二代の家慶・第十四代の家茂と徳川歴代将軍15人の内6人の将軍の墓所が設けられている徳川家菩提寺である。前述したように、寛永寺・神田明神(巻二参照)と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺(浅草観音・巻二参照)と日枝神社(山王権現・巻六参照)を結ぶ直線とが交差する地点に江戸城が位置している。

【巻五】には、「芝瑠璃山遍照寺・窪町烏森稲荷・芝金杉村西応寺・田町八幡・芝大仏・芝焔摩堂・芝泉学寺・品川東海寺・品川水月観音・池上本門寺」が紹介されている。

 「芝大仏」は、「しばのおおぼとけ」と読むが、帰命山如来寺大日院の金箔を貼った五智如来像を指し、身丈が一丈(約3m以上)もある五智如来像が五躯並ぶ姿は壮観で江戸では注目されていた。『江戸名所記』の添付挿絵では五躯下の蓮台部分のみを描き興味をそそる構図となっている。現在では、「帰命山如来寺大日院」と「金光山養玉院大覚寺」が合併して「帰命山養玉院如来寺」と称している。

 「芝泉学寺(泉岳寺)」は、現在では四十七士の忠臣蔵で有名であるが、「泉岳寺」は徳川家康の命により慶長年間に創建され、吉祥寺栴檀林・青松寺獅子窟と共に曹洞宗江戸三箇寺三学寮として隆盛した大寺院であった。

 「品川東海寺」は、澤庵和尚が開いた「東海禅寺」のことである。「澤庵和尚は出羽の上山に流罪となったが、後に許され東海禅寺を建て、その風儀を慕う好事家たちが門前に市をなした。」と『江戸名所記』には記載されている。

 澤庵和尚こと澤庵宗彭(たくあんそうほう・天正元年・1573~正保二年・1646)は、安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した臨済宗の僧侶で京都の大徳寺の住職であった。関西で親しまれた日干し大根の「たくわえ漬」を沢庵が江戸に広めたものが「沢庵漬け」の逸話であるが、徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、「たくわえ漬」を家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したのが始まりであるとの言い伝えである。

 「池上本門寺」は、『江戸名所記』では「昔、日蓮聖人が安房小湊から舟で鎌倉に通った時、品川の浦で舟から上がり、池上村に入って、関東番匠棟梁・右衛門尉池上宗仲の家に宿泊した。聖人は山の景色を見て、ここは遷化の場所であると心に決めた。後に、身延山よりこの地に移り、宗仲の家に弟子を集め遷化の時が来たことを告げ、弘安5年に遷化した。」とある。宗仲は檀那となり家を寺としたが、これが大坊である。やがて、本門寺は隆盛し境内も広くなり、祖師堂には日法作の聖人御影があり、「長栄山・本門寺・祖師堂」の額は本阿弥光悦の書として有名である。

【巻六】には、「目黒不動・赤坂氷河大明神・永田馬場山王権現・牛込右衛門桜・牛込堀兼井・牛込穴八幡宮・曹司谷法明寺・小石川金剛寺・関口村目白不動・小石川極楽之井」が紹介されている。

 「目黒不動」は、『江戸名所記』では「目黒というのは地名であって、本尊の名称ではない。昔、慈覚大師が比叡山に向かう途中、目黒で一泊した折、不動明王の夢を見て霊木にその像を刻み、この地に安置した。その後、慈覚大師が唐から帰朝して関東に下った時、この地において独鈷で地を掘ると滝水が湧き出した「独鈷の滝」と呼ばれ、この滝水は炎天にも涸れることが無かった。そして、御堂が火災にあった時、不動明王は滝水の上に移って無事であった。これを見た人々は本堂を建て不動明王像を安置した。その後、本堂などの伽藍を再興し、本堂は山の中腹にあり石段で上がる。滝水は絶えることなく流れ続け、人々は滝にうたれて諸病を癒している。」と記載されている。

 「永田馬場山王権現」は、現在の「日枝神社」である。『江戸名所記』によると、慈覚大師が川越に星野山無量寿寺を開いた時に、比叡山の山王権現から、二宮権現・気比宮・王子宮を選び、三所の神として勧請したことに始まり、その後、太田道灌が川越から江戸城内に移して産土神としたと伝えている。山王権現は、慶長の頃に麹町御門(半蔵門)外の貝塚の地に遷座し、その後現在地の永田町に移った。前述したように、寛永寺・神田明神(巻二参照)と増上寺(巻四参照)を結ぶ直線と、浅草寺(浅草観音・巻二参照)と日枝神社(山王権現)を結ぶ直線とが交差する地点に江戸城が位置している。かつての祭礼の行列は、山王権現を出て麹町御門(半蔵門)から江戸城内に入り、紀伊徳川家の屋敷を経て、天主を背に竹橋門を出て常盤橋門に至る経路を通っていたようであるが、江戸三大祭の神田明神の神田祭・浅草寺の三社祭と日枝神社の山王祭は、江戸城の表鬼門と裏鬼門を浄める意味づけがあったようである。

 「曹司谷法明寺」は、『江戸名所記』では「威光山法明寺の開山は日源上人で、もとは天台宗であったが、日蓮聖人との問答に負けて弟子になり、寺も日蓮宗になった。本堂は3間四面、飛騨の匠の作で、日蓮の御影があり、ある人の話では楠正成妻室が願主という。」と記載している。現在では「雑司ケ谷の鬼子母神」として有名であり、浅草寺や目黒不動と並んで江戸三拝所の一つでもあり、多くの参詣客が訪れていたことを窺わせる。

 「小石川極楽之井」は、由来について『江戸名所記』では「了誉上人が吉水の寺に居たとき、竜女が姿を現じて仏法の深き旨を求めたので、上人が弥陀の本願他力の要法を丁寧に説明した。竜女は、その恩に報いるため名水を出したが、これを極楽之井と名付けた。」と記載している。また、挿絵から推察すると、井戸ではなく湧水であった可能性が高い。

【巻七】には、「小石川伝通院・渋谷金王院・金杉村天神・白山町白山権現・橘樹郡栄興寺(影向寺)・日比谷神明・王子金輪寺・愛宕山・傾城町吉原」が紹介されている。

 「小石川伝通院」は、「無量山寿経寺伝通院」は、了誉上人が小石川の地に草庵を結んだことに始まり、徳川家康の生母が死去するとこの地が埋葬地となり、法名に従って伝通院となる。『江戸名所記』では、この寺が浄土宗の談林所であると記載されている。

 「傾城町吉原」の「傾城町」とは、高級な公娼(遊里・遊郭)を指すことが多く、遊女屋の集まった町のことを呼称した。一説では、現在の日本橋人形町付近には葺などが繁茂していたので「葭原」(よしわら)と呼ばれていた地域で、埋め立ての後に、縁起の良い字にかえて「吉原」と称したとの言い伝えである。

 『江戸名所記』では、明暦の大火の後に浅草の北に移ってきた傾城町の新吉原について、「大道より八町ほどの日本堤を行くと北向きに門があり、入口は一か所だけで三方は堀になっていること、門内には、江戸町・二町目・すみ町・新町・京町・あげや町の六町が向かい合っている」と記載している。

【参考】改造文庫⇒改造社が岩波文庫に対抗して改造文庫を創刊した経緯があり、価格は岩波文庫を意識して半額に設定された。

『東海道名所記』

 『東海道名所記』は、神社仏閣名所旧跡を訪ねながら江戸から京都の宇治までを旅する名所記で、万治二年(1659年)に成立したと推定されている。東洋文庫によれば全6巻の構成となっている。

 江戸を出発し、東海道五十三次の8番目の宿場である大磯宿、小田原を越えて、東海道五十三次の18目の宿場である江尻宿、東海道五十三次の34番目の宿場である吉田宿、東海道五十三次の45番目の宿場である庄野宿、東海道五十三次の46番目の宿場である亀山宿から京都の山科そして宇治を紹介している。

【参考】東洋文庫⇒平凡社が刊行する叢書シリーズで、「東洋」の名の通り、日本・中国・韓国はもちろん、インド・中近東・中央アジアまでの東洋全域の古典的遺産を広く紹介しようという意図で創刊された。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成三十年(2018年)四月作成