『日本楽府』(にほんがふ)

    


タイトル:日本楽府(にほんがふ)

著者:山陽外史頼襄(頼山陽)

出版書写事項:文政十三年冬月(1830年)贛齋蔵版

形態:一巻全一冊 和装大本(B5版)

序:篠崎弼(篠崎小竹)

註日本楽府叙:牧輗(牧百峰)

讀日本楽府評語十二則:竹田(田能村竹田)

後叙:後藤機(後藤松蔭)

発行書林:須原屋 伊八(江戸)
     河内屋茂兵衛(大阪)
     吉田屋治兵衛(京都)

目録番号:win-0010001



日本楽府』の解説

 頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)の事業には、歴史家・経世家・学者・芸術家・詩人と多才な側面がある。 とりわけ、詩人としての豊かな天分があり、生涯に創出した詩はおびただしい数に上るが、詩集の出版を急がなかった。 山陽ほどの詩人でも彼の生前に刊行を見たのは、この『日本楽府』一冊のみである。

 この本の構想は、国史から題材をとり、当時の国数である六十六にちなんで、楽府体(がふたい)六十六闋(けつ)を脱稿し、 聖徳太子から豊臣秀吉までの国史を補おうとしたものである。

 楽府体とは、韻(いん)をふんだり、平仄(ひょうそく)を整えたりする古い格式にとらわれず、 長短歌を自由に混在させて、楽器にあわせて歌えるように設計された詩の形式である。まさしく、「詩」と「音楽」は切っても切り離せない存在でもある。

 この書籍の冒頭には「山陽外史擬製」とあり、中国の李東陽(1447年~1516年)の「擬古楽府」(古楽府の題のみを借りて作った楽府)を模範として、 古代から織豊時代(織田信長・豊臣秀吉時代)までの歴史を歌謡風に詠じたものである。

 山陽が四十九歳の文政十一年(1828年)十二月のわずか二十日間で脱稿したというから、得意の題材であったことがわかる。 また、山陽は努力の人でもあったので、一度発表した詩でも字句を入れ替えたりして、詩集の出版を急がなかったのである。 また、親友の篠崎弼(篠崎小竹)が序を、田能村竹田が讀日本楽府評語十二則を担当している。 そして、門人の牧輗(牧百峰)と後藤機(後藤松蔭)がそれぞれ叙を担当している。

 どうも山陽は、織田信長に興味があったようである。それは日本楽府六十六全篇に対して全体の10%にあたる六篇も信長に関しての項目を設けていることでもわかる。 ここでは、詩吟でもよく詠われる興味深い一篇をご紹介しよう。

【原詩】
 吉法師。無所師。堕地披鎧不披緇。心悟不参古兵法。芟刈群豪開九逵。擎日荊榛底。再挂扶桑枝。
 袞芾倒輝妙法旗。莫恨盤根錯節利劍折。後覇盡師吉法師。

【現代語訳】
 吉法師。師匠など無い。大地に生まれ落ちたのは武門の家、鎧を披(き)て、墨染の袈裟(「緇衣・しえ」は僧侶を意味する)を披(き)た僧門の家ではない。 武略は独創で、古の兵法の書物に学んだものではない。割拠する群雄をなぎ倒し、関所を廃して九つの大道(九街道・四方に通ずる大路)を開く。 荊(いばら)の底から日(皇室)をかかげ、再び扶桑(日本)の枝にかけて(再び繋ぎとめた)、 天子(袞は天子の礼服、芾は膝掛け)の光増したもうのは南無妙法蓮華経の旗のおかげである。 盤根錯節(ばんこんさくせつ・入り組んでいて解決の困難な事柄)に天下平定の事業の半ばに折れた剣、恨むな吉法師。 後の英雄(豊臣秀吉・徳川家康)はことごとく、吉法師の君を師匠とせぬ者は無し。

 山陽が織田信長を紹介する最初の闋において、武門と僧門の対比をするところはさすが絶妙である。 「比叡山」「一向宗」を徹底的に攻撃した信長であるが、なんと、「南無妙法蓮華経の旗」を掲げて「天下布武」を推し進めていったのである。

 なお、現代においても、社会科の教科書に「日出処の天子」とあれば、厩皇子(聖徳太子)に関する事柄であると解るほど有名になったのは、 実は、頼山陽の『日本楽府』の冒頭の一篇が大きく影響しているとも言える。 なぜならば、明治初期の学校教科書の歴史分野は、頼山陽の著作を基に構成されたことが大きく影響しているからである。

 また、「日出処」や「蒙古来」や「繰絲(そうし)」(静御前の悲しい運命が題材)などは、 明治から昭和の終戦まで教科書に登場したり詩吟で詠われたりして人々の話題に上っていたからでもある。

 この『日本楽府』は、歴史に対する興味が涌くような構成が施され、研究してみようという意欲がでる字句を使用しているのが特徴である。 そして、山陽が自画自賛している通り、史学の入門には適当な詩集であり、古体詩を学ぶ人には大いに手本となる詩集でもある。


   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)八月作成