『日本政記』(にほんせいき)

    


タイトル:日本政記(にほんせいき)

著者:頼襄子成(頼山陽)

出版書写事項:文久紀元(1861年)十二月
       頼又次郎蔵板
       浪華 田中太右衛門・浅井吉兵衛・柳原喜兵衛

形態:十六巻全八冊 和装大本(B5版)

発行書林:京都 吉野屋仁兵衛
     東京 須原屋茂兵衛・山城屋佐兵衛
        岡田屋 嘉七・和泉屋吉兵衛
        和泉屋金右衛門・岡村屋庄助
     尾州 永楽屋 東四郎・萬屋東平
        菱屋藤兵衛・菱屋平兵衛
     大阪 河内屋喜兵衛板

目録番号:win-0010005



日本政記』の解説

 頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)の「日本外史」(以下、外史と表記)は人物の伝記を中心に描いた記伝体(紀伝体)の歴史物語であったが、「日本政記」(以下、政記と表記)は、事実を年月の順で記した編年体で脱稿したものである。また、外史は武家政治の歴史から見て、どのように王室が衰退しどのように武家政権が盛衰したかを読者に訴えたが、政記は神武の建国から戦国時代までの通史である。

 政記の意図は、政治の得失を論じ、何を戒め何を模範とすべきかを問題提起することにあった。特に、各事件の終わりに「頼襄日」(頼襄日く)と論文を配置して、自分の意見を論賛という形で述べている。外史の「外史氏日」と同様に、この部分が山陽の真骨頂であり名文であり、山陽の政治哲学が述べられている。ただし、外史と同様に、江戸幕府の体制を直接批判することは危険であったので、政記は豊臣氏時代で終わっている。

 なお、司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻であるが、山陽はこれを模範として「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の構想を立てた。外史全二十二巻は十三世家に相当し「政記」が三紀に、「新策」「通議」が五書・九議・二十三策に相当する。山陽は、死の直前まで「日本政記」を校正していたと伝えられるので、「外史」「新策」「通議」と合わせて「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の構想は一応完結したことになる。

 ところで、政記の初出版は天保九年(1838年)で外史と同じく拙修斎叢書(江戸後期に中西忠蔵が刊行した書籍で、得難い写本や出版の難しい政事向きの書から成り、規制のゆるやかな活字本ゆえの貴重な刊行事業とされている。)の和装大本(B5版)サイズの木活字版である。今回提示した政記は、文久紀元(1861年)十二月 頼又次郎蔵板とあり、浪華で版になったものであるが、発行書林の表記から京都・東京・尾州・大阪とあり、明治期以降の印刷と思われる。

 外史の伝播とあいまって、その勢いに押された感もあるが、外史の脱稿を終了してからすぐ政記の執筆を山陽は開始している。痛切な江戸幕府への批判を込めた政記の哲学は、世の人々を覚醒し外史を上回る感銘を読者に与えている。

 たとえば、維新の志士であり初代内閣総理大臣の伊藤博文と初代外務大臣の井上馨が国禁を犯して文久三年にロンドンに遊学した時、全三巻の政記の写本を携え、その感動を連名で跋文に認めたものが存在していることからも、その与えた影響の大きさを窺うことができるであろう。また、新選組の近藤勇(天保五年・1834~慶應四年・1868)の愛読書でもあった。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)八月作成