ここで、少し「数」についてのお話をしましょう。

「九九」も一つの「計算芸術」かもしれません。「九九」の歴史は、古くは中国の紀元前に遡りますが、日本では、「千字文」で有名な百済の国から渡来して、漢字を伝えた王仁博士(「和爾吉師」とも呼ばれ、四世紀末から五世紀初の人。ただし、実在は証明されていない。)に起源がありそうです。

  王仁博士のお墓』←大阪府枚方の名所の一つです。

「漢字の渡来」については、「百済の武寧王による五経博士が漢字の渡来の起源である。」等の諸説ありますが、私は、日本人の心の中に住み着いた王仁博士の説を支持します。諸説ありますが、まず漢字の渡来があって初めて「九九」も成立しますので、王仁博士を紹介したのです。

「九九」は、日本人の心を伝える「万葉集」にも登場します。

「二二」と書いて「し」、「二五」と書いて「とお」、「十六」と書いて「しし」、「八十一」と書いて「くく」などと表現しています。また、「八十一隣(くくり)の宮に日向(ひむかひ)に行き闕(か)くる靡(な)く」などの「九九」を洒落て歌った歌も残されています。

また、「数の不思議」と言えば、「小さな数」「大きな数」などは、もっとおもしろいことを発見できます。

それでは、「小さな数」の不思議をご紹介しましょう。

「沙塵」  「沙」は0が8つもつく小数、「塵」は0が9つもつく小数、現代国語辞典では「砂塵」とも書くと説明している通り、「沙塵」とは砂粒ほどの小さな数です。
「漠」  0が12もつく小数で、現代では、「漠然」と書けば、全内容がはっきりしない様子。
「逡巡」  0が14もつく小数で、現代では、「決断がつかず迷うこと。」と説明されています。
「刹那」  0が18もつく小数で、現代国語辞典では「きわめて短い時間」と説明されています。
「虚空」  「虚」は0が20もつく小数で、「空」は0が21もつく小数で、「虚空」は仏法用語で、お馴染みです。
「清浄」  「清」は0が22もつく小数で、「浄」は0が23もつく小数で、「清浄」は、現代では「よごれた所が少しも無く、きれいな様子。」と説明されています。

  今度は「大きな数」をご紹介しましょう。

「恒河沙」  0が52もつく大きな数で、「恒河」とはガンジス川、「沙」とは「砂」のことで、「恒河沙」で無数を表現する言葉です。
「阿僧祗」  0が56もつく大きな数で、数えることのできない長い期間のことです。
「那由他」  0が60もつく大きな数で、仏法用語では、「那由佗」「那由多」とも書き、具体的数量については、経典によって多くの説があり、現在の数では一千億に当たる説が有力です。
「不可思議」  0が64もつく大きな数で、「思議すべからず」と読む。思議することができない程「大きな数」です。

これらの「数」についての起源は、日本に仏教が伝来し「妙法蓮華経(法華経)」などの経典に記載されていた「数」が伝承されたと伝えられています。

ここでご紹介した「大きな数」などは、全て仏法用語で「妙法蓮華経(法華経)」に登場します。また、これらの「数」は、ある時期に追加されたものであることがわかっています。

ここで、現代の算数計算にも「数の不思議」を発見できますので、ご紹介しましょう。「数字」は不思議な存在です。ここでご紹介する「不思議な計算」は、なぜ小学生に計算ミスが頻繁に起こるか?また、なぜ小学生は「分数」が苦手なのか?のヒントともなると思います。

【不思議な計算】

次の計算は、加法と乗法の符号のまちがいによる計算ですが、等号が成立する例です。

【不思議な分数】

次の分数は、分母・分子の数字をそれぞれ左右入れ替えた時にも、等号が成立する例です。

このような分数は、まだたくさん存在します。

数字とは本当に、不思議な存在ですね。