この論文で今まで長々と、「算術の歴史」「寺子屋の歴史」等を述べてきたのは、何も「温故知新」を強調したいがために、ご紹介したわけではありません。その本義は、戸田先生が創設された「時習学館」の存在意義を明らかにしたかったからなのです。
戸田先生が創設された「時習学館」の「時習」とは、「時を習う・時を学ぶ」という意味で、命名されたと伝えられています。そして、牧口先生の革新的な教育学説を、戸田先生が逞しい在野精神で、実践の場とした学園が、「時習学館」です。
ここで明確にして置きたいことは、戸田先生が経営していた「時習学館」は、「受験塾」であると言うことです。一部の著作などでは、「補習教育の塾」と表現され紹介されていますが、これは正確な表現ではありません。
それでは、現代の「受験塾」の現状をご紹介しながら、塾史上における時習学館の存在意義を検証してみたいと思います。
まず、大前提となる「学習塾」の大きな2つの分類からお話します。「小学生対象の学習塾」は、大きく分類して「補習塾」と「受験塾」の2つに大別できます。前者は、「小学校の学習範囲に遅れを取らないように、補習・補完を目的とする塾」です。後者は、「将来の進路を射程に入れ、大学・高校入学をスムーズにしたいがために、中学入試に必要な術を伝授してもらう塾」です。ただし、外見的には前者の「補習塾」の看板は「○○補習塾」となっていないために一般人では判別しにくいのです。この大前提の認識を明確にしておかないと、これから先のお話は「ずれ」が生じます。
これら2種類の「学習塾」のイメージを考えてみましょう。
「補習塾」は簡単にイメージできます。なぜならば、公立、私立を問わず国家統制の範囲内の小学校教科書に準拠した、システム・カリキュラムですから、教科書を見れば一目瞭然です。
では、「受験塾」はどうでしょう。受験塾のシステム・カリキュラムは、「カタログ・要綱」を見れば、その受験塾の概略はわかりますが、実際の指導内容は「中学受験経験者」でないとイメージが湧きません。つまり、「中学受験経験者」でないとその全貌は理解できない。いわば「特殊な世界」なのです。この「特殊さ」ゆえに、「秘伝」が存在しますし、生徒の学習意欲もその「秘伝」如何で、向上もしますし、衰退もします。そして、特に「算数」の世界は顕著に現れます。
まだ言えば、「補習塾」の場合は、いわゆる「算術遊び」で授業は成立しますが、「受験塾」の場合は、「合否」に係わります。つまり「死活問題」に係わるわけです。まだ付け加えれば、我が子供を中学受験させる場合、「中学受験経験者」のご家庭はイメージできますから、まだスムーズにその世界に溶け込めますが、「中学受験未経験者」のご家庭は、いわゆる「賭け」です。「受験塾」の先生からお話を聞いて、納得すれば入塾となります。
おもしろい話をしましょう。
かつて「受験戦争」と言われた時代の「受験塾」で使用していたテキストは、いたって簡単に出来ていました。「指導単元名」「例題」だけが羅列してある「問題集」のみを使用して指導していました。いわゆる「虎の巻・解き方」は掲載されていませんでした。なぜかといえば、この「虎の巻・解き方」が各塾の「秘伝」だからです。
では、現代の二大大手塾で使用しているテキストといえば、単元名称の違いはありますが、『指導算術』とほとんど同じ体裁・内容です。『指導算術』のような「指導単元名」「例題」「解き方」が掲載されたテキストが主流です。そして、練習用の「改題問題集」がセットです。
なぜこのような形態になったかは、
@ 「このような指導方法で教えます。」との明確化を要求された。 A 教師の質の低下。 B 教師間に「秘伝」の伝授が途絶えた。 C 商業ベースによる標準化。 D 学生のだれでもが指導できる教材が必要となった。 などが主な理由です。
それでは、教師間に「秘伝」の伝授が途絶えた理由をお話しましょう。
かつての教師の伝授法は「おれの秘伝を盗め」という方式でした。時代が進むにつれて、伝授する側と伝授される側の教師の間で意思の疎通が困難になったのです。テキストをそのまま指導してもある程度の学力が向上するテキスト開発が要求され、また学生のだれでもが指導できる標準化された教材が要求されたのです。(当然、この教材に反発する「筋金入り教師」は存在しますが、現代ではその塾の中では、主流には成り得ません。)また、現代でも「受験塾内」で使用しているテキストは一般公開されていません。
それでは、なぜ『指導算術』はベストセラーになったにも拘らず、現代までに『指導算術の解説書』が存在しなかったのでしょうか?
理由は、いくつか考えられますが、
@ 「中学受験」に縁している人々は必要を感じていたが、大多数の人は『指導算術』の存在を知らなかった。 A 牧口先生、戸田先生の投獄により、教育者の弟子たちの多くが退転し、『指導算術』の研究者は存在したが、「秘伝」は伝承されなかった。 B 「中学受験塾」のノウハウ書として内部留保され、「中学受験塾」のみにその「秘伝」が伝承された。 C 第二次世界大戦の敗戦と共に、アメリカ教育システムの導入により、公教育における「算術」は崩壊した。 D 教育現場に携わる人材は、煩雑な仕事に追われ『指導算術』の研究はできても、公開する時間的余裕がなかった。 E 『指導算術』の自序に「推理力の発達は同等性と差別性とをみいだす練習にあることを体得した」とある通り、『指導算術』は体験した人間でないと理解できない書であった。 などが考えられます。
では、なぜ現代の「受験塾」に脈々と『指導算術』の計算芸術は受け継がれてきたのでしょうか?
簡単なことです。それは、国家統制の及ばない日影の存在である「受験塾」の教師たちが、日影の存在ではあっても「目の前にいる生徒を如何に合格させるか」に情熱を傾け、日夜研究を重ねて来たことが最大の理由でしょう。当然、ベストセラーである『指導算術』を手本にして研究を重ねて来たことは明らかです。それもそのはず、『指導算術』は中学受験のベストセラー参考書だったので、中学受験関係者の多くの方々が目を通したはずです。前述の現代の受験塾で使用しているテキストは、単元名は異なりますが、体裁・問題設定方法・推理法(解き方)まで全て酷似しているのです。ただ違う点がありますが、くわしくは後述します。
逆を考えれば、今から70年以上も前に、『指導算術』は完璧な中学受験参考書として存在していたのです。そして、『指導算術』の存在がなかったならば、現代の「受験塾」は羅針盤を手にすることなく、現代のような進化を遂げることはできなかったのではないかと私は思っています。
池田大作先生(以下、「池田先生」と呼ぶ。)は、「恩師戸田城聖先生」(池田大作著・第三文明社)の中で、「恩師は、一九二三年、二十三歳の時に、小学校の訓導をやめ、時習学館という私塾を開きました。そこで、夜間、独自の教育方針のもと、子どもを教えたのですが、そこで学んだ小学生たちは、ぐんぐん成長し、一流の志望校へ、どんどん進学していきました。その地域一帯に、昼間の学校はダメで、夜の学校(時習学館)でなければダメだ、という評判がたち、市立の小学校の教師から、大変、やっかみの目で見られたそうです。」とある通り、この構造は現代でも変わらないのです。皆様も良く聞く話だと思いますが、「小学校の授業よりも塾の授業の方がよく理解できる。」「塾の方が楽しい。」等々、「受験塾」は夜間の指導のため、昼間の小学校の時間数に比べると制限があります。短時間で効率の良い指導法を工夫して、指導に当たる必要があります。このことは「受験塾の宿命」なのです。
通常の「受験塾」では、この「秘伝」を社内留保し非公開としますが、戸田先生は『推理式指導算術』として公開して見せたわけです。当然、当時としては画期的なことであったことが想像できます。「秘伝」と思われている「受験塾」内部で使用していた教材プリントを公開するわけですから、当時の同業者からは、「あほなことするわ」程度であったかもしれません。しかし、庶民はこの絶好のチャンスを逃さなかったのです。
戸田先生の「実地の教授にあたっては用ゆるべき教科書がない。もちろん教える者の悩みは学ぶ者の悩みであり損失である。これ余が不敏をも顧みず推理練習を主眼とした本書発刊の動機である。」との言葉をもう一度考え合わせて見ると、「学力低下問題」が危惧される現代こそ、「受験塾」さながらに展開される参考書が必要となるのです。それも、実績のある参考書を、「秘伝」として非公開にするのではなく、公開する必要があるのです。
ところで、私が主催するウィンベル学院のサイトの「学院生登録者」は、現在まで約二年の間に、400人以上おいでになりますが、以下の点を要望されて登録された方々です。
@ 中学入試の実態を知りたい。 A 子供を中学受験させたいが、近くに良い受験塾がない。 B 指導現場(学校・学習塾)での参考としたい。 C 算数の学力アップの方策を知りたい。 D 『指導算術』は知っているが、内容を知りたい。 などが主な理由で訪問されます。
つまり、私が作成した『指導算術の解説書』は、私の経験を加えた書であり、「受験塾」に通わせたくても不可能な環境にあるご家庭の一助となる書であり、指導の立場で苦慮している教師の助けとなる書であり、最低限の入試単元を自学自習できる内容の書であり、学力向上を目的とする推理力養成の書であり、戸田城聖先生の業績を後世に伝える書であるのです。
そして、戸田先生は『指導算術』以外にも後世の「受験塾」にお手本となった2つの点を実践されています。
それは、「模擬試験」と「館債の発行」です。
「模擬試験」のようすは、『戸田城聖伝』(西野辰吉・第三文明社)に詳しく伝えられているので、その一部をご紹介しましょう。
「模擬試験のほうは、戸田は準備も宣伝もして、青山会館を借りてこころみた。(中略)成績の順位を百番までは氏名校名、それ以下は受験番号で会場に提示した。当時、東京の中等学校でもっとも格の高いのは、府立一中、三中、東京高等師範の附属中学や東京高校、府立高校の尋常科、第二の級が武蔵中学や成蹊、成城、学習院など、第三がその他の私立高、女子、実業校であって、この模擬試験の順位は受験生とその父兄にどのへんの学校を志望したらいいかという目安になった。」と紹介されています。
まさしく、この「模擬試験」は、現代の模擬試験の先駆けであります。また、「学習塾ともちがった『東京府綜合模擬試験』という名称ではじまったこのあたらしい事業は成功して、二、三年のうちに青山会館では収容しきれなくなったので、青山会館のほかに、五反田の星講堂、芝の飛行会館、本所の本所公会堂、小石川の伝通会館に分散して、おこなうようになった。模擬試験には三千人にちかい生徒があつまるようになっている。」とも紹介されています。
また、戸田先生は「時習学館」での運営資金調達のため、国債や社債とおなじ形式で利払いもおこなわれる「館債の発行」というユニークな方法を採用されています。この奇抜なアイデアは当時話題になったそうです。現代でいえば、学習塾の「株式店頭公開」といったところでしょうか。
戸田先生は、「時習学館」での実践・実証経験を経た後、牧口先生と共に、『創価教育学体系』の出版事業に着手されます。『創価教育学体系』については、くわしくご紹介しませんが、出版された当時の熱烈な主張を感じて頂くために、趣意書に掲げられた五箇条をご紹介しておきます。
一、 教育の経済化によって、能率が増進されねばならぬ。これを目標として教育制度と教育技術の両方面に、今の教育が改革されるならば、教育力(教授力・学習力・時間・経費等)は少なくとも半減されると信ずる。 二、 盲目的自然的の教育方法が抛棄(放棄)されて、明目的計画的系統的なる文化的教育法が採用され、施設経営がされ、知行合一の主義によって価値創造力が涵養されねばならぬ。 三、 前項の重圧に堪えるだけの優秀教師を得んが為に、教育者が優待されると共に精選されねばならぬ。 四、 教育制度も教育方法も、生産的創価的に改革されねばならぬ。 五、 社会学的社会観により、学校が一箇の社会として経営されて、教育殊に道徳教育の源泉とならねばならぬ。 ここまで書くと読者の皆様は、なぜ、私が『指導算術の解説書』の作成を決意したかを、お気づきでしょう。そして、なぜ『指導算術』はベストセラーになったかを、ご理解いただけたと思います。