昭和○○年2月3日誕生

茂夫(左写真、英国紳士の風情)と政枝(右写真、白衣の天使)の長男として樹冠人の
姓名をいただき、広島に生をうける。母は被爆者、つまり私は原爆2世です。
厳密に言えば、祖父茂一(戦艦長門の機関長)も原爆慰霊碑の名簿に記載されていますので、
「被爆者一族」・「原爆とのお付き合い三代」ということになります。




(ボーイスカウト熱中時代)

 
           
世界ジャンボリーに日本代表として参加した記念写真。
後日談:この時、台風に遭遇。その救援の指揮をとられていたのが、
池田名誉会長であったことを知る。何も知らぬ能天気な姿。
会場は富士朝霧高原でした。
(避難場所の大石寺のコンクリートは記憶にあります。)

 
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(陸上競技熱中時代 Part1)



全国中学放送陸上(織田記念大会)では、中学日本新記録でるか?
ごめん、400Mリレーでアンカーの私がバトンを落としました。懺悔。
上の写真は短距離最強メンバー。最高のチームだったね。
私の左、平木豊(仮名)くん某出版社の編集長です。
後日談:彼に大学時代、折伏されました。




(陸上競技熱中時代 Part2)

       


日本にもかつて100M世界タイ記録保持者が存在していたことをご存知ですか?
その名は、『暁の超特急』の異名を持つ吉岡隆徳先生です。
弱冠16歳で先生に弟子入りし、オリンピックで日の丸を掲げる夢を見た時代です。
真ん中の写真が先生の遺品となりました。

吉岡隆徳先生について:吉岡隆徳  江波文学塾「暁の超特急」  吉岡隆徳「暁の超特急」


 

19歳で創価学会に入会。ちゃんと4年で卒業できました。まわりの皆様のお陰です。

この時、人生を決定づける師匠と出会えたのです。
その方が、創価学会 名誉会長 池田大作先生です。
弟子と名乗るのもおこがましいですが、青春時代の
思想・哲学形成の羅針盤を拝受した思いでした。
それから幾星霜でしょうか?現在も退転することなく、元気で頑張っています。

以下は、学生部時代のグループ大会の記念写真です。
『創価新報』でも有名な「まっと・ふくしま」「花の三丁目地区」の舞台地です。



栄えある杉並第五部 光永グループ。
私の原点です。みんな元気で頑張っているかな?

忘れまじ「杉並学生部歌」(杉並沿線歌)
身震いした方はご一報あれ!


    

男子部時代の最大の思い出。それは、第2回世界平和文化祭に「人文字」(通称:みどり虫)で参加。
練習場所は荒川土手、雨の日の猛特訓が目に浮かびます。あの興奮はもう・・・・・
ご存知の如く、このメンバーは演目が終了すると、西武球場から西武電車で一目散、
各拠点に直行、成功のご祈念。全ての演目はビデオで見ました。
”役者の命は、裏方にあり” この時、学会精神を身で読むことができました。感謝

    


      

妻は20歳、私は?歳。今でも白蓮のような妻。


国立学院予備校(現ENA)を皮切りに、東大セミナー・CAP・四谷大塚と
地域1番校で塾教師の修行を積み、「建て直し屋」の異名をとる。
1995年にウィンベル教育研究所(ウィンベル学院)を創設。
ウィンベル運動(『勝利の鐘を鳴らすのは、あなた自身だ。!』をモットーとし、
人生の荒波を乗り越える智慧を磨く運動)を展開。
現在、HP(ホームページ)でも展開中。


我が家の誇り


2004年7月 常勝関西の地、枚方に転居しました。

東京牧口記念会館を守る「共栄会のメンバーとして、8期〜10期まで務めました。


《 依 処 》

弥三郎殿御返事(御書1451ページ)

『構へて構へて所領を惜しみ妻子を顧りみ又人を憑みて、あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし』