南無妙法蓮華経について


【南無妙法蓮華経について】

妙櫻華:「南無」つまり「帰命」については、「御義口伝について」で説明しました。「妙法」については、「妙」は法性であり悟りを表し、「法」は無明であり迷いを示しています。したがって、「妙法」というとき、すでに無明法性一体であることがあらわされています。「蓮華」とは、因果の二法を示し、因果一体、すなわち因果倶時をあらわしています。「経」とは、章安大師が「声仏事を為す之を名けて経と為す」とあるように、一切衆生の言語音声をあらわしています。そして、生命が、過去・現在・未来の三世にわたって、永遠に続いていくことを「経」というのです。

樹冠人:章安大師こと章安灌頂(しょうあんかんじょう・561年〜632年)は、天台大師智の弟子で中国天台宗の第四祖です。師匠である天台大師と共に天台山に移り住んで、天台大師の書記を長年務め上げ、三大部の「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」などほとんどの著作を筆記しています。

妙櫻華:大宇宙も、わが生命も、森羅万象ことごとく「妙法」であり、「蓮華」であり、「経」なのです。つまり、宇宙生命の根源のことを「妙法蓮華経」といい、過去幾千万の哲学者や思想家たちが、解決に努力をしてきた、生命の実体こそ「南無妙法蓮華経」だったのです。そして、文字は七文字ですが、その意味は深遠です。「御義口伝」でご教示された「南無妙法蓮華経」について、各段を詳しく紐解いてみましょう。


人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり

樹冠人:何に「帰命」するかによって、その人の幸不幸が決定されてしまう。最高無上の帰命は何か?まさしく、日蓮大聖人に帰命し奉り、「南無妙法蓮華経」に帰命するに尽きますね。つまり、これこそ最高の帰命であり、事実の上に、絶対的幸福を感得でき得るからですね。

妙櫻華:民衆の幸福、世界の真の平和たる、広宣流布の戦いに、命を捨てる姿こそ、真実の帰命といえる。自我偈(じがげ)にいわく「一心欲見仏・不自惜身命」と、永遠の生命の会得、覚知、ならびに、令法久住(未来永遠にわたって妙法が伝えられていくようにすること)のために、身命を惜しまぬ信心こそ、実践こそ、帰命の究極といえるのではないでしょうか。

樹冠人:また、観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と仰せですね。

妙櫻華:御本尊を信じ、「南無妙法蓮華経」と唱題することによって、すでに権・迹・本の釈尊の因位の万行、果位の万徳が具わるとのご指南です。御本尊を受持することは、宇宙の本源力に帰命する姿となるのです。ゆえに、一切の大福運が、わが生命の中に具足してくるのです。すなわち、受持即観心こそ、正しい帰命の姿となるのです。


又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と

樹冠人:釈迦仏法において、釈尊は爾前経では「二乗不作仏」を説き、「女人不成仏」「悪人不成仏」を説いています。また、菩薩の修行過程に五十二位の段階を作って、幾多の修行を積んで、最後に悟りが得られるとの説き方ですね。

妙櫻華:しかし、法華経迹門にきて前説をくつがえし、「二乗作仏」「女人成仏」「悪人成仏」を説き、さらに「諸法実相」を説いて、森羅万象ことごとく、妙法の当体であることを示しました。いわゆる、一切の現象は百界千如、一念三千なることを明かしたわけです。誰人も妙法の当体であり、非情界の草木、瓦石たりとも同じであり、全宇宙が妙法の当体なのです。

樹冠人:一切衆生ことごとく、妙法の当体であるという道理は、絶対の真理であり、ありのままの実相ですね。法華経迹門では、この妙法蓮華経という、宇宙本源の理・不変真如の理を説き明かしたのですね。迹門では、釈尊自身が、いつ、どこで、どういう原因によって仏になったか。この事実の振舞いのうえに、釈尊自身の証得のうえに、一念三千を説き明かした。そして、この仏としての具体的実際の振舞いを「随縁真如の智」という。しかし、これは釈迦仏法の範囲内での理論ですね。

妙櫻華:日蓮大聖人の仏法からみれば、釈尊の法華経は、本迹ともに「迹」となり、ともに「不変真如の理」となるのです。法華経二十八品は、ことごとく末法御出現の日蓮大聖人および御本尊の説明書となります。ゆえに、釈迦仏法は「迹門不変真如の理」となり、日蓮大聖人の仏法こそ、仏としての具体的実際の振舞いである「本門随縁真如の智」であるわけです。

樹冠人:そして、地獄界から仏界までの十界の生命活動は、一個の生命に具わっていますが、「縁」にふれなければ顕現しないものですね。つまり、仏界とは、いかなる生命状態か、その仏界を現わす方法はいかにすべきか、これこそ仏法上の重大問題で、何に「縁」するかがポイントですね。

妙櫻華:つまり、御本尊を信じ、「南無妙法蓮華経」の題目を唱える直道によって、仏界を涌現することが、簡単にできるのです。つまり、これが「随縁真如の智」で、随縁の縁は「御本尊」にあたり、真如とは「仏界」のことで、智とは「信心」のことです。

樹冠人:我が身も妙法の当体、宇宙も妙法それ自体です。我々が妙法を唱えるとき、わが生命が、大宇宙の本源のリズムに合致するのですね。これで「不変真如の理」に帰したことになる。そして、その宇宙の本源力たる妙法蓮華経が、現実生活の上に、生命活動の上に涌現してくる。その生命力、智慧が源泉となって、苦難・苦悩を打開し、人間革命・生活革命を成就することが可能となるのですね。これが「随縁真如の智に命(もとず)く」にあたるのですね。

妙櫻華:日蓮大聖人は、当体義抄で、「御本尊を信ずる者のみが妙法の当体である」と御断定です。現実には、不信の者は、絶対に妙法の当体とはいえないことが明らかです。ここが最大ポイントで、我々が「南無妙法蓮華経」と唱えることは、宇宙のリズムに合致した、道理にかなった、自然本然の姿です。しかし、その力を発揮するには条件があって、「御本尊を信ずる者のみ」が現実の生活に、偉大な智慧と活力を発揮させることができるのです。つまり、これが「帰命とは南無妙法蓮華経是なり」の本当の意義です。

樹冠人:例えば、「法華経」「御書」それ自体が「不変真如の理」です。今、私達が懸命に、その「法華経」「御書」を勉強している。これこそ「不変真如の理に帰している姿」なんですね。そして、信心および智慧によって会得して、自分自身の生活の糧に、人生観・社会観の源泉とすることは、「随縁真如の智に命(もとず)く」にあたるわけですね。

妙櫻華:自然界の現象に例えれば、「不変真如の理」を大海とした場合、波が「随縁真如の智」となります。また、水を「不変真如の理」とした場合は、湯・水蒸気・冷水・氷と、何かの縁によって変化してゆく様子が「随縁真如の智」となります。

樹冠人:一個の人間である樹冠人がもつ法は、「不変真如の理」ですね。そして、この樹冠人は、ある時は「法華経」を勉強している樹冠人です。ある時は、食事をする・自動車に乗る・歩く・寝る・怒る・笑う・仕事をする・etcと、刻々と変化しているのが生活の実相ですね。一切の活動は「随縁真如の智」に基づいているのですね。しかも、樹冠人はいつでも樹冠人であって、別人となるわけでは決してないのです。

妙櫻華:そこで、日蓮大聖人は「随縁不変・一念寂照」と仰せられた。これらのように、「随縁真如の智」を離れて、「不変真如の理」があるのでもなく、「不変真如の理」がなくて、「随縁真如の智」があるというのでもない。一切万物の事象ことごとく、随縁不変をともに備えているものなのです。まさに、この随縁不変がともに存在しているのが、生命の実相で本質であり、「妙法」の実体なのです。

樹冠人:「一念寂照」の「一念」とは、生命の実相がわかる「十界互具」も、生命に内在する因果がわかる「十如是」も、三世間による「依正不二」も、ことごとく具足していることを説いた「一念三千の原理」を示していますね。「寂照」とは、小乗教に説く「寂滅」に相対した内容で、小乗教では煩悩を断じ尽くして、生死をはなれるところに悟りがあると説きました。大乗教における「寂照」とは、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」のことですね。

妙櫻華:「寂滅」の場合は、全てを犠牲にして己れのみ悟りを得ることに努力するので、利己主義極まりないことです。「寂照」の立場は、人生を楽しみつつ、社会に価値創造しながら、悟りを得るのです。末法の法華経の説く「寂照」は、妙法に照らされ、九界の現実に遊戯していく人生です。


又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり

樹冠人:「帰」とは、絶えず新陳代謝して宇宙に還元されていく肉体のことで「色法」と呼び、「命」とは、「心法」のことですね。

妙櫻華:絶えず、宇宙のリズムに冥合(みょうごう)してゆこうとする作用を指し、この「色心不二」の生命哲学が、最高の大哲理なりとの日蓮大聖人の御確信です。「色」とは、目にみえるもの、物質・形質・肉体を意味します。「心」とは、物質にあらざるもの、性質・性分・精神・内在する力などを意味します。

樹冠人:如何に生命を把握するか、いかなる体験をすればよいのかが重大問題ですね。「御義口伝」には、この「色心不二」については度々登場しますので、その都度考察したいと思います。


釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと

妙櫻華:「一極」とは、最高の哲学を意味します。「仏乗」とは、「一仏乗」のことで、成仏の境涯を指し、妙法の最高哲理を実践してのみ、永遠に崩れない幸福境涯を開くことができるとの御指南です。

樹冠人:低級な哲学・思想を基調にすれば、必ず矛盾を生じ、混乱と不幸をもたらしてしまいますね。この御文は、天台大師の文を引いて、最高峰の大思想・永遠不滅の大哲学はこれなりとの、日蓮大聖人の宣言であると拝することができます。


又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり

樹冠人:御本尊を拝すると、中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とお認められています。「南無」とは梵語、「妙法蓮華経」は漢語、「日蓮」は日本語で構成されています。そして、左右十界の衆生にも、梵・漢・日の三か国の文字が全部配されています。右端と左端にある梵字は、不動明王と愛染明王が表され、他は、日本語・漢語で表現されていますね。

妙櫻華:これこそ日蓮大聖人の仏法が、日本のみならず、全東洋・全世界の仏法であることの表明であり、意義づけられているのです。そして、「南無妙法蓮華経」の大仏法が、世界へ流布されていくことは、時代の要求であり、人間本然の欲求であり、決して止めることのできない奔流なのです。


妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり

樹冠人:前述した通り、「妙」は法性であり悟りを表し、「法」は無明であり迷いを示しています。したがって、「妙法」というとき、すでに無明法性一体であることがあらわされています。「蓮華」とは、因果の二法を示し、因果一体、すなわち因果倶時をあらわしています。「経」とは、章安大師が「声仏事を為す之を名けて経と為す」とあるように、一切衆生の言語音声をあらわしています。そして、生命が、過去・現在・未来の三世にわたって、永遠に続いていくことを「経」というのですね。

妙櫻華:「経」とは、仏典の経文のことだと、世人は思っていますが、それだけを意味するのではありません。仏教上の「経」とは、宇宙の森羅万象の語言・動作のことごとくが「経」なのです。ですから、非情より有情の経は高い、有情でも動物より凡夫の経が高い、人の中でも凡下の者より智者、智者の中でも大智者の経が高い、大智者のなかでも「仏(ほとけ)」と名づけられた方の経が、最も高いと結論できるわけです。

樹冠人:我々の生活で見た場合は、不動産屋は不動産屋の経を、弁護士は弁護士の経を、魚屋さんは魚屋の経を、政治家は政治家の経を、教育者は教育者の経を、日常読んでいるわけですね。

妙櫻華:戸田城聖先生は、「仏滅後の今日、妙法蓮華経の経はもっとも高しとするゆえんのものは、妙法とは最高の価値ある生命であり、蓮華とは最高価値ある生命を内包する玉体である。ゆえに最高善を営む、すなわち、大善生活を営む者の経こそ最高であり、真理である。」との意味を常に言われていたそうです。


蓮華とは八葉九尊の仏体なり

樹冠人:八葉九尊とは、一往真言家の説く、胎蔵界曼荼羅の中央の一院(中台院)が八葉の蓮華となっていて、中台には大日如来、東・西・南・北・東南・東北・西南・西北の周囲の八葉には四仏四菩薩の八尊が坐っています。これらを指して九尊といっていますね。

妙櫻華:しかし、これは大日の経文に説くといっても権大乗教で、実大乗教の法華経から見れば、「八葉九尊」とは「九界即仏界」の意味を説明しているのです。大日経では、九界即仏界を説くことができないので、生命論の解明の前提として、一つの形式を示したのです。

樹冠人:日蓮大聖人が引例されたのも、その意味は生命論として扱われたのですね。ゆえに、前文に「九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり」と仰せで、九界は因であり、仏界は果ですね。九界即仏界は、因果倶時であり「蓮華の法」ですね。だから、「蓮華とは八葉九尊の仏体なり」と仰せられたのですね。

妙櫻華:最後に、日女御前御返事の御文を拝読して締め括りましょう。

 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」


 以上



        

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  梁塵秘抄が謳う法華経の世界

       2012年5月3日 ウィンベル教育研究所 池田樹冠人 識