御義口伝について


【御義口伝について】

樹冠人:「御義口伝」(おんぎくでん)は、日蓮大聖人(貞応元年・1222〜弘安五年・1282)の御講述を日興上人(寛元四年・1246〜元弘三年・1333)が筆録された書で、弘安元年(1278年)に上下二巻で完成した口伝集で、本因妙抄・百六箇抄などと並んで日蓮大聖人の奥義が教示された重書ですね。

妙櫻華:日蓮大聖人が晩年の建治年中に、身延山において、法華経の要文について大聖人の御内証の立場から講義されたものを、日興上人が筆録され、日蓮大聖人の御允可(ごいんか・「許可」の漢語的表現)を得たもので、日蓮大聖人の文底下種の法門が明かされている重要な書です。

樹冠人:上巻には序品第一の七箇の大事から従地涌出品第十五の一箇の大事まで、下巻には如来寿量品第十六の廿七箇の大事から普賢経の五箇の大事まで、そして別伝として「廿八品に一文充(ずつ)の大事」「一廿八品悉(ことごとく)南無妙法蓮華経の事」が収録されていますね。

妙櫻華:「御義口伝」は主として初めに天台大師・妙楽大師の解釈を引かれ、次に「御義口伝に云く」という述べ方で記録されているのが特徴です。そして、日蓮大聖人の寿量文底下種の法門が明かされています。宗教の極理論においては、「種脱相対」「三大秘法」「人本尊」「法本尊」「人法一箇」「久遠元初」が明かされ、生命の本質論においては、「色心不二」「三諦」「三身」「十界互具」「一念三千」が明かされ、「世界広宣流布」「永遠の幸福」が明かされています。

樹冠人:上巻の冒頭には「南無妙法蓮華経」について詳しく説明されていますが、解説をお願いします。


【本文】

 御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変・一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。

【通解】(「御義口伝講義」より)

 南無妙法蓮華経について、日蓮大聖人の御義口伝には、次のように仰せである。

 「南無」とは梵語であって、これを漢語に訳せば「帰命」という。その帰命する対境、対象に「人」と「法」とがある。「人」とは、文底の釈尊即人本尊たる日蓮大聖人である。「法」とは末法の法華経であり、法本尊であるところの南無妙法蓮華経である。すなわち、人法一箇の大御本尊に帰命することが、真実の中の真実の帰命なのである。

 また「帰」というのは、迹門不変真如の理(永久に不変である真実の法理)に帰するのである。「命」とは本門随縁真如の智(縁に随って、刻一刻と変化する事象に対応した幸福への生命活動で、一念三千の当体の生命の確立を意味し、仏界を涌現すること)に命(もとず)くことなのである。南無妙法蓮華経は、宇宙本源の絶対真理である。ゆえに、妙法を唱えることによって、宇宙の本源に合致できうるのである。したがって、不変真如の理に帰したことになる。そして、その偉大なる妙法の力が、わが生命活動に、生活の上に、顕現してくるのである。これ随縁真如の智に命(もとず)いたことになるわけである。結局、帰命とは、南無妙法蓮華経自体のことなのである。

 つまり、「帰」とは、われわれの色法を意味する。「命」とは、われわれの心法を意味するのである。この色法すなわち肉体・物質と、心法すなわち精神・心の働きが不二であると説く、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、最高唯一の哲学なのである。この日蓮大聖人の大宗教に帰依することによって、成仏の境涯、すなわち、色心ともに、絶対の幸福確立をなすことができるのである。


妙櫻華:「南無妙法蓮華経」の御義口伝が、冒頭にきているのは、「南無妙法蓮華経」こそ一切経の根本であり、法華経の肝要であるからです。そして、「南無妙法蓮華経」こそ一切経の骨髄であり、宇宙の根本であることを示されています。また、釈迦仏法の最高峰たる法華経であっても、「南無妙法蓮華経」を根本としなければ、いくら読んでも、学んでも、真実に法華経を読み、学んだことにはならないのです。

樹冠人:「法華経」が最高の経文であることは、少し仏法を知る有智の人ならだれでも知っていることですが、実は多くの人は、法華経を読んだつもりでいても、文々句々に執着し、「なぜ法華経が最高であるのか」という根本の理由を知らないでいるのですね。法華経に何が説かれているのか?これこそ根本問題で、「序品における大儀式」や「宝塔品の二処三会の儀式」や「地涌の菩薩の大地からの涌現」など、これらは、何を示すものであるのか?

妙櫻華:「法華経」を本当にわかろうとするなら、当然ぶつかる重要課題です。文上だけで満足していれば、増上慢であり、謗法の科は絶対まぬがれない。そして、我々と全く無関係に位置づけてしまうと、生活と遊離した空理空論に終始してしまうわけです。そして、経文には「これを信ぜざる者は悪道に落つ」とあり、これを疑えば釈尊および日蓮大聖人の二仏を妄語の仏と見てしまう。

樹冠人:たとえば、釈尊の経文に登場する仏・菩薩の「仏像」を作ったり、日蓮大聖人も「六万九千三百八十四文字ことごとく金色の仏なり」と仰せですが、文上をそのまま読んで、「金色の仏像」を作り、拝んでしまえば、謗法の科はまぬがれない訳ですね。

妙櫻華:法華経には、「当体蓮華(とうたいれんげ)」と「譬喩蓮華(ひゆれんげ)」が説かれています。当体蓮華とは、動かすことのできない真理の直接説明であり、譬喩蓮華とは、その真理を、譬えをかりて説明したものです。つまり、「蓮華」について因果倶時の法それ自体を説くときは「当体蓮華」であり、因果倶時の法を蓮華の花をかりて、その花と実とが同時にあることを示して、これを説明するのが「譬喩蓮華」です。

樹冠人:たとえば、序品の三類の大衆の集まりは、すなわち譬喩蓮華であって、当体蓮華ではないのですね。つまり、何万の声聞・何万の菩薩・何万の雑衆は、ことごとく釈尊己心の声聞であり、釈尊己心の菩薩であり、釈尊己心の雑衆であるわけで、妙法蓮華経は、釈尊の命であり、釈尊の心ですね。つまり、法華経は、序品から、生命それ自体を説いていることが明確で、開経の無量義経においてもすでに、生命の不可思議な実体を、さまざまな角度から説き明かしていますね。

妙櫻華:「南無妙法蓮華経」の不思議な実体を現わすために、釈尊は法華経二十八品を説いて説明に努めたのです。ゆえに、釈迦仏法は、「南無妙法蓮華経」を説明する譬喩蓮華であり、日蓮大聖人が御建立の「御本尊」こそ当体蓮華であるわけです。つまり、今日の表現で表すと、釈尊の仏法は家の「設計図」に当たり、日蓮大聖人の仏法である「南無妙法蓮華経」は「家それ自体」であるわけです。ここが重要なポイントで、能く能く思考しなければならない点でもあるのです。

樹冠人:家に住む当主は、専門用語が羅列された設計図を見ても意味不明でしょうが、その意味を一級建築士から説明を受ければ、なぜ家が建っているのかが理解できるという訳です。このことと同様に、大聖人の「御義口伝」により、初めて「法華経」の文々句々が意味をもち、生かされて、生活の中に、実感として、脈々と生きてくるのですね。

妙櫻華:つまり、今回企画した『梁塵秘抄が謳う法華経の世界』は、この設計図を紐解き「南無妙法蓮華経」の真髄を披瀝することでもあります。次の項目の「南無妙法蓮華経について」を必ず読んでから、法華経の各品の学習を進めてください。


 「南無妙法蓮華経について」に続く




        

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  梁塵秘抄が謳う法華経の世界

       2012年5月3日 ウィンベル教育研究所 妙櫻華・樹冠人