『古文真寶』(こぶんしんぽう)

    


タイトル:古文真寶(こぶんしんぽう)

編者:黄堅

出版書写事項:明治三庚午年(1870年)夏六月発行
       明治三庚午歳晩夏校正新刻
       京師 三書房蔵版

形態:和装小本(ポケット版)全五冊

書房:吉野屋仁兵衛・菱屋孫兵衛・勝村屋治右衛門

目録番号:koten-0010002



古文真寶』の解説

 「古文真寶」については、江戸時代の正徳版と安政版である程度説明したが、実は江戸期の「古文真寶」を同じ版で全巻を揃えるのは難しかった思い出がある。全体展望するには全巻必要となるので、明治期の版を探したら手ごろなセット本があったので購入したものである。今回紹介する書籍は、古文前集(上・中・下)・古文後集(上・下)が全巻揃った五冊完本である。しかも、持ち運びに都合のよい横95mm×縦130mmのポケット版である。とにかくこの書籍は、活字が大きく持ち運びに便利で現在でも重宝している。

 今回の解説は、「古文真寶」の中でも一番読まれていると思われる諸葛亮こと諸葛孔明(181年~234年)の「出師表」を取り上げたいと思う。諸葛孔明についは、陳寿(ちんじゅ・233年~297年)が編纂した歴史書「三国志」の「蜀志 諸葛亮伝」に詳しく表記してあるが、蜀漢時代の政治家・発明家・丞相で、字は孔明、自らを伏龍・臥龍とも呼んだ逸材である。「三国志」では劉備玄徳の創業を助け蜀漢建設の立役者となり、跡継ぎの劉禅を補佐して北伐に際して上奏した「出師表」はあまりにも有名である。また、偽作の議論が絶えない「後出師表」も「古文真寶」では堂々と記載されていることは正徳版と安政版でも説明した。

 「出師の表」は「すいしのひょう」と読む。「師」とは軍隊のことで、例えば、日本では京都第16師団(現在の京都師団街道に隣接した警察学校地点に駐屯)など戦時中の軍隊の呼び名にも使われた。「出」は「~を出す。」との意味の場合は「出納帳」などと同様に「すい」と読む。「表」は上表文(じょうひょうぶん・「上」は「たてまつる」との意味)のことで、「出師の表」で「軍隊を出すにあたって、そのことを皇帝(帝王)に申し上げる文章」の意味となる。ちなみに、陳寿が編纂した「三国志 蜀志 諸葛亮伝」「諸葛亮集」や黄堅が編纂した「古文真寶後集」などには全文が収録されているので、諸葛亮の真作であることを疑う人はいないのが現状である。

 「後出師の表」については、陳寿が著した「三国志」には収録されていない。同様に、彼が編纂した「諸葛亮集」(原典は今日まで所在不明で、清国の張澍が編纂したものが現存)にも収録されていない。ただし、「三国志」に註を加えた裴松之(はいしょうし・372年~451年)が「漢晋春秋」の文を引いて全文を掲載し、呉の張儼(ちょうげん)の「黙記」に見えると注記している。この「後出師の表」の真偽については現在まで判定不能である。

 私こと樹冠人の意見としては、まず陳寿は蜀漢に仕え(左遷された経験がある)滅亡した後、晋(西晋)に仕えていることを考えると、高く評価していた「諸葛孔明」の存在を、正史の中に彼の文章力で遺したかったのではないか。そこで、禅譲で魏国から後継となった晋国に遠慮もあるので「前出師の表」のみを記録したと思われる。次に、孔明は呉国と同盟した後も鼓舞するために檄文(出師表)を呉国に送ったと伝わっている。呉国の重臣の張儼は、孔明をたいへん尊敬していたのである。また、孔明の兄(諸葛瑾)の子で甥にあたる諸葛恪(203年~253年)は後に呉国の丞相となった人物であるが、前出師表を読んで「この文を読んで泣かない者は忠義の臣下ではない。」と発言していたという。この事と呉国は蜀漢が滅亡するまで同盟国であることを考え併せると、孔明を高く評価したはずである。ゆえに、度々送られてきた出師表の最初と最後を、「黙記」に記録したのではないか。ただし、「後出師表」の文脈の不整合などを考えると、何種類かの出師表を併せた可能性がある。

 ここでは、後学のために「白文」と樹冠人の「現代訳」(訳註を添付)を提示することにした。なお、本訳註は先学の業績の学恩を拝受しているが、すべてを表記していないことをお許しいただきたい。

【出師表 白文】

先帝創業未半而中道崩殂。今天下三分。益州疲弊。此誠危急存亡之秋也。然侍衛之臣下懈於内、忠志之士忘身於外者、蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。誠宜開帳聖聴、以光先帝遺徳、恢弘志士之気。不宜妄自菲薄、引喩失義、以塞忠諌之路也。宮中・府中、倶為一体。陟罰臧否、不宜異同。若者作姦犯科、及為忠善者、宜付有司、論其刑賞、以昭陛下平明之理。不宜偏私使内外異法也。侍中・侍郎郭攸之・費禕・董允等、此皆良実、志慮忠純。是以先帝簡抜以遣陛下。愚以為宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行。必能稗補闕漏、有所広益。将軍向寵、性行淑均、暁暢軍事。試用於昔日、先帝称之、日能。是以衆議挙寵為督。愚以為、営中之事、事無大小、悉以咨之。必能使行陳和睦、優劣得所。親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也。親小人、遠賢臣、以後漢所以傾頽也。先帝在時、毎与臣論此事、未嘗不嘆息痛恨於桓・霊也。侍中・尚書・長史・参軍、此悉貞亮、死節之臣也。願陛下親之信之、則漢室之隆、可計日而待也。臣本布衣、躬耕於南陽、荀全性命於乱世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣草盧之中、諸臣以当世之事。由是感激、遂許先帝以駆馳。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間、爾来二十有一年矣。先帝知臣謹慎、故臨崩、寄臣大事也。受命以来、夙夜憂歎、恐付託不効、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛、今南方已定、兵甲已足。当奨率三軍、北定中原。庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還於旧都、此臣之所以報先帝、而忠陛下之職分也。至於斟酌益、進尽忠言、則攸之・禕・允之任也。願陛下託臣以討賊興復之効。不効則治臣之罪、以告先帝之霊。若無興徳之言、則責攸之・禕・允等之咎、以彰其慢、陛下亦宜自謀、以諮諏善道、察納雅言、深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激、今当遠離、臨表涕泣、不知所云。

【出師の表 樹冠人訳】

先帝(今は亡き劉備玄徳、以下同様)は漢室復興の大業を創められ、途中で崩殂(皇帝の死を意味する崩御)されました。今、天下は魏・呉・蜀の三つに分れておりますが、わが国の益州(現在の四川省)は疲弊しております。これは誠に国の危急存亡の時であります。しかし、陛下(劉禅、以下同様)をお守りする臣下は宮中で懈(おこた)らず懸命に務め、忠節の士は外地でわが身を忘れて戦っております。これらの者はみな先帝の殊遇(御厚恩)を忘れず、それを陛下に対して報いようとしていると思われます。陛下におかれましては、聡明なる耳目を開き、忠義の言葉をよくお聞きになり、先帝が遺された聖徳を輝かし、志ある者が益々のびのびとその志を実現できるような政治をなさるべきであります。陛下ご自身が、「自分は菲薄(ひはく・徳が薄く軽んじること)であるから」などとお考えになり、あれこれと喩えを出して義を失い、忠義の者が発する諫言を封じ込めてはなりません。
宮中(禁中)と政府(府中は政務を執る場所をさす)は、ともに一体でなければならず、臧否(ぞうひ・善悪のこと)を陟罰する(善き者を登用し、悪き者を罰する)にあたっては、異同があってはなりません。もし姦を作し科を犯した者(罪悪を犯した者)、その逆で忠義で良い行いをした者については、必ず担当する部署において賞罰を議論させ、陛下の公平で明確な政治を天下に明らかになさいませ。陛下個人の感情で禁中と政府で法の運用が異なるようなことがあってはなりません。
侍中(皇帝・天子の顧問官)の郭攸之(かくゆうし)や侍郎(黄門侍郎のことで、天子の左右に従い警護する役目)の費禕(ひい)・董允(とういん)らは、皆善良で篤実であり、忠義にして純粋な心の持ち主であります。それゆえに、先帝は彼らを抜擢して陛下のために遺されたのです。私が考えますに、禁中の事については、その大小にかかわらずすべて彼らに相談された上で施行なさいましたら、必ず不十分な点を補い、考え漏らした所を補って、広く天下に利益を与えることでありましょう。将軍の向寵(しょうちょう)は、性質おだやかで行動も公平、そして軍事に精通しており、昔のある日、先帝は彼を試用せられましたが、「有能である」と言われました。それゆえに、衆議一決して彼を大将に任命したのであります。私が考えますに、軍営に関する事は、大小にかかわらず、すべて彼に相談されれば、必ず陣中の将兵をむつまじく統率し、優れた者も劣った者も、適材適所に配置することでしょう。
賢臣に親しみ、小人を遠ざけることが、前漢の興隆した理由です。小人に親しみ、賢臣を遠ざけたことが、後漢が傾き頽(くず)れた理由です。先帝は御在世中、臣といつもこの事を論じ、宦官を信じて国を滅ぼした後漢の桓帝(かんてい)や霊帝(れいてい)について、嘆息し、痛恨されました。侍中(前述の郭攸之ら)・尚書の陳震・長史の張裔・参軍の蔣琬(しょうえん)らは、これらの者はことごとく貞亮(節義を重んじること)で、節義のために命を捨てることができる臣下であります。願くば陛下は彼らに親しみ信じてください。そうすれば、漢室の再興隆盛は、あと何日と日を数えながら待つことができるでしょう。
私はもと無衣(無位)無官の人間で、南陽で農耕に従事し、乱世にどうやらこうやら生命を全うしているにすぎぬ存在でしたが、諸侯に自分の名が知られ、出世する日が来ようとは思ってもいませんでした。先帝は私の卑鄙(いやしいひなびた村)の出身などは気にされず、もったいなくも自ら膝を屈せられ、三度も私の草盧(草庵)をお訪ねになり、私に現在の情勢において、いかなる政策をとればよいかを諮問されました。私はこのことに感激し、先帝のために、どのような苦労もいとわず、駆馳(駆けずりまわること)して働くことを承諾しました。その後、当陽県長坂で魏軍に敗れた危難の際に、命令(呉との連合を結ぶ任務)を与えられ、以来二十一年の月日が流れました。
先帝は私が謹慎な人柄であることをよくご存知で、それ故に崩御されるに臨んで、私に国家経営の大事を託されました。命を受けて以来、夙夜(朝に夕に)に心を痛め、先帝の重い付託に応えられず、先帝の御聡明さを傷つけはせぬかと憂歎(憂慮)しつづけました。それ故五月、瀘水(句町県から出る川で、毒気を含む川とされた)を渡って、深く南方の不毛の地に入り、今や南方は平定されております。武器や兵隊も十分にあります。当に今こそ三軍を統率し、北へ進軍して魏を平定すべき時であります。庶(こいねがわく)は私は愚鈍な人間でありますが、全力で悪人どもを追い払い、漢室を復興して、漢室本来の都である長安・洛陽の地を奪還いたしたく存じます。此こそ私が先帝に報い、陛下に忠を尽くす職分(本分)であります。
内政において損失をよく考えはかり、進んで忠言(忠義の言葉)を尽くすのは、郭攸之・費禕・董允らの任務です。願くば陛下、私に賊を討伐し、漢室を復興せよと御命令ください。その功績をあげられなかった場合には、私の罪を吟味して量刑し、先帝の霊にお告げください。もし内政において郭攸之・費禕・董允らが、陛下の徳を一層盛んなものにする進言ができなかった場合は、彼らの罪をとがめ、その怠慢を明らかにして、お責めください。また、陛下ご自身におかれましても、善き政道は如何なるものかを臣下に諮問され、正しい言葉を聞き分けた上で、お聞き入れいただき、先帝のご遺言を思い出して深く考え、おつとめくださいますよう。
私は御恩を頂戴した感激にたえません。今、国を遠く離れて北伐を行うにあたり、この上表文を書き始めたのですが、涙があふれ出るばかりで、何を申し上げたらよいのか、自分でもわからなくなってしまいました。

 さて、「白文」と「日本語訳」の文字数の違いに気づかれましたか?

 漢文は使用する漢字の選択により気持ちの微妙な違いを詠いあげることができます。また、日本の現代文から比べると文字数を少なくして文章をコンパクトに纏めることができます。

 どうですか?日本語の特徴でもある助詞も漢字から抽出した言葉ですが、中国の人が助詞が苦手な理由をお解かりいただけたでしょうか?

 現代日本では、当用漢字の数も増えている傾向にありますので、唐宋時代の人間のような感受性に優れ、心の深い人間が育つ時代も夢ではなくなりました。多様な心の表現種類が使用可能な漢字を勉強してはいかがですか?

 ささやかな樹冠人の思いでした。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)七月作成