『史記十傳纂評』(しきじゅうでんさんぴょう)

    


タイトル:史記十傳纂評(しきじゅうでんさんぴょう)

著者:司馬遷

出版書写事項:明治十八年(1885年)二月出版

版権所有:岡山弘文北舎蔵

形態:十巻全五冊 和装大本(B5版)

序:南摩綱紀

史記十傳纂評序:西薇山

自序:芳本鉄三郎

纂評者:芳本鉄三郎

出版人:大島勝海

目録番号:koten-0010005



史記十傳纂評』の解説

 「史記」については、「史記評林」で説明したので省略するが、「史記十傳纂評」の説明の前に、西薇山(西毅一・天保十四年・1843~明治三十七年・1904)が閑谷保黌会を結成し再興した「閑谷学校」について説明しておく。

 「閑谷学校」は、江戸時代の岡山藩主・池田光政(慶長十四年・1609~天和二年・1682)によって創設された世界最古の庶民の学校である。頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)などの著名人も来訪し、大鳥圭介(天保四年・1833~明治四十四年・1911)は少年時代を閑谷学校で学び、緒方洪庵(文化七年・1810~文久三年・1863)の適々斎塾に入門した。現在では、講堂は国宝に指定され、その他の建物も重要文化財に指定されている。

 今回紹介する「史記十傳纂評」の編纂に関わった西薇山・芳本鉄三郎・大島勝海は、この学校の関係者である。西薇山は明治十七年に閑谷学校の教頭として着任し翌年黌長となる。薇山は家族と共に閑谷に移住して、その半生を閑谷黌教育に捧げた。なお、小説家で評論家の正宗白鳥(明治十二年・1879~昭和三十七年・1962)も閑谷学校の卒業生である。庶民の学校であった「閑谷学校」では、「史記評林」が繁雑であったので、初学者のための導入教科書が必要であったと思われる。

 「史記十傳纂評」は、呉齊賢(「史記論文」が有名)と李晩芳(「讀史管見」の「人事を尽くして天命を待つ(盡人事而待天命 )」の評論で有名)、そして森田節齋(頼山陽門下)と西薇山(森田節齋門下)の講説を掲載している。「史記」を研究する初学者にとっては、大変参考となる教科書である。序文を担当している南摩綱紀も西薇山も森田節齋(文化八年・1811~慶應四年・1868)の門下であり、頼山陽の流れを汲んだ後学である。また、吉田松陰も師事した森田節齋の講義は、松陰に大きな影響を与えている。松陰が松下村塾で塾生を指導した書籍の音読の節回しは、節斎流であったと伝わっている。

 この「史記十傳纂評」は「太史公書」こと「史記」の本紀・世家・列伝の代表的項目を挙げて、森田節齋門下の西薇山の講説を中心に編纂したものである。

 巻一「項羽(本紀)」は、史記の中でも特に名文の賞賛を得ている段であり、故事成語の「四面楚歌(しめんそか)」が生まれた段でもある。また、仏法でいうところの「因果応報」を教えている段でもある。項羽(項籍)は秦末期の楚の武将であり「西楚の覇王」と呼ばれ、ライバルの劉邦とは天下の覇権を争ったが最後は自決して果てた。

 巻二「外戚(世家)」は、外戚の援助が重要である点を強調している段である。

 巻三「管晏(列伝)」は、管仲と晏嬰(あんえい)の伝記である。管仲は春秋時代の斉の国の桓公に仕えた政治家で、管仲と鮑叔の友情を伝えた「管鮑の交わり」は有名である。また、管仲は内政改革を実行し、桓公を覇者に押し上げた宰相(鮑叔が片腕となる)として後世の手本となる。管仲の著書「管子」に「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」の言葉があるが、最高の臣下の代名詞ともなった。晏嬰も春秋時代の斉の政治家で、君主に対して常に諫言した勇気は有名であった。諫言を行う人物の「たとえ」は絶妙であるが、晏嬰のそれも見事である。その一例が、「牛の頭を看板に掲げ、馬肉を売っているようなもの(牛頭馬肉)」から変化した「羊頭狗肉(ようとうくにく)」のことわざとして現存している。

 巻四「廉頗藺相如(列伝)」は、戦国時代の秦に悩まされた趙の国の列伝で、「刎頚(ふんけい)の交わり」を生んだ列伝でもある。廉頗は勇将の誉れも高い大将であり、藺相如は智勇に優れた大臣であった。当初、武功で認められた廉頗は、藺相如が口先だけで自分より出世したと誤解していたが、趙の国のために廉頗と争わない藺相如の姿の本意を悟り、廉頗が「藺相如のためなら頸を刎ねられても後悔はない」と言えば、藺相如も「私も将軍のためなら喜んで頸を刎ねられましょう」と応えた。これが、「刎頚の交わり」の逸話である。

 巻五「荊軻(列伝)」は、秦王の時代の刺客(職業的暗殺者の意味ではなく、大義のために暗殺した烈士のこと)の逸話である。「史記列伝」には五人の刺客(せっかく)が登場するが、巻一に登場する劉邦の軍師であった張良や巻三で説明した管仲も刺客として該当する。荊軻(けいか)は燕の太子の命令で秦王の後継者である政(始皇帝)を暗殺しようとして未遂に終わり、これが原因となり燕は秦に滅ばされることになる。

 巻六「淮陰侯(列伝)」は、淮陰侯とは「韓信の股くぐり」で有名な淮陰出身の韓信のことである。初め項羽に仕えていたが漢王劉邦に大将軍に任じられて一躍有名になった。不利と考えられていた「背水の陣」を機に応じて行ったことでも有名な武将である。

 巻七「魏其武安侯(列伝)」は、「流言蜚語」の出典となった列伝である。「流言」も「蜚語(飛語)」も根拠のないうわさ話のことである。前漢の考景帝のとき、呉と楚が叛乱を起こした。その時、魏其侯と武安侯の二人が好敵手として戦った。魏其侯は第三代孝文帝の従兄弟の子、武安侯は考景帝の皇后の弟で、二人とも漢室とは関係の深い間柄であった。

 そして、巻八は「李將軍(列伝)」、巻九は「游俠(列伝)」、巻十は「滑稽(列伝)」である。

 「史記十傳纂評」は、以上のような逸話で構成されている。いわゆる、組織における人の振舞いについての訓戒を伝えた十の伝記である。

 最後に、「史記十傳纂評」の序文を担当した南摩綱紀について触れておく。

 南摩綱紀(なんまつなのり・文政六年・1823~明治四十二年・1909)は、江戸時代後期から明治時代に活躍した漢学者で教育者である。会津藩の武士として生まれ、安政期に関西歴訪の見聞録「負笈管見録」を著し、蝦夷地に五年間勤務してアイヌ人にも学問を教授していた。頼山陽の流れを汲んだ後学で森田節齋の門下でもあり、漢学者の名声が轟いていたことから、維新後、東京帝国大学の教授に就任し、宮中講書始も二度進講している。

【参考①】 中国哲学書電子化計画

【参考②】 特別史跡「旧閑谷学校



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)四月作成