『史記評林』(しきひょうりん)

    


タイトル:史記評林(しきひょうりん)

著者:司馬遷

出版書写事項:寛永十三年(1636年)九月上旬
       八尾助左衛門尉開板

形態:百三十巻全五十冊 和装大本(B5版)

校:呉興稚隆

増補:温陵李光

附:読史総評・短長説・補史記

刊記:干時寛永十三丙子年九月上旬
   洛陽三条寺町本能寺前
   八尾助左衛門尉開板

巻末に「種徳堂熊氏増補繍梓行」とある。
京都大学附属図書館所蔵と同等。

目録番号:koten-0010003



史記評林』の解説

 「史記」は、中国前漢の宣帝の時代(紀元前90年ごろ)に、太古から前漢の武帝時代までを、司馬遷(紀元前145年~?)自らが創出した記述法である「紀伝体」で書き上げた体系的な歴史書である。人間描写の天才ともいえる表現は、現代まで超える者はいない程優れた感性で書き上げている。また、この「史記」は、正史二十四史の筆頭に数えられた。

 「正史二十四史」とは、中国の歴代王朝が公認した正統な紀伝体の歴史書であり、清の乾隆帝が定めた「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「晋書」「宋書」「南斉書」「梁書」「陳書」「魏書」「北斉書」「周書」「隋書」「南史」「北史」「旧唐書」「新唐書」「旧五代史」「新五代史」「宋史」「遼史」「金史」「元史」「明史」の24の歴史書である。

 中国の殷時代の伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の二人の王子の逸話は有名であるが、孔子(紀元前551年~紀元前479年)は「論語」で「伯夷と叔斉は事を憎んで人を憎まない人たちであったので、怨みを抱いて死んだのではない。」と説いた。その説に疑問を抱いた司馬遷は「史記」で「彼らは怨みを抱いて死んだのではないか?」そして、正しい人が不幸になることに疑問を感じ、「天道是か非か」と読者に訴えた。まさしくこの疑問が「史記」の基調となっている。

 「史記」の構成は、「本紀十二巻」「表十巻」「書八巻」「世家三十巻」「列伝七十巻」の全百三十巻で成立している。正式な書名は、「太史公書」と著者本人が名づけた。また、「太史公曰」の後に、自分の意見・論評を付記して後学の勉強材料を提示している点も特徴の一つである。なお、「太史公自序」を最後の第百三十巻に配している。そして、この「太史公書」は、後世に「史記」と呼ばれたことから、現代まで「史記」と呼ばれたのである。

 今回紹介する「史記評林」は「史記」の注釈書である。史記の注釈書には劉宋時代の「史記集解」、唐時代の「史記索隠」「史記正義」などが有名であるが、日本では明時代の「史記評林」が伝来して、史記の研究書としては定評があった。この書籍は370余年前に発行された貴重な書籍である。江戸時代の八尾助左衛門尉開板(八尾版)は定評があり、盛んに読まれた書籍でもある。

 この書籍は、「読史総評」と「短長説」が別冊に組まれ、史記評林巻之一の前に司馬貞の「三皇本紀」を「補史記」として掲載し、次に「五帝本紀第一」から始まる「史記」を配置している。また、「史記」で表現された詩文が、現代では「故事成語」として厳然と存在していることは脅威に値する。参考までに、有名な故事成語を列記しておこう。

 「酒池肉林」 巻三・殷本紀、巻百二十三・大宛列伝
 「百発百中」 巻四・周本紀
 「鹿を馬となす」 巻六・始皇帝本紀
 「先んずれば人を制す」 巻七・項羽本紀
 「四面楚歌」 巻七・項羽本紀
 「雌雄を決す」 巻七・項羽本紀
 「鴻門の会」 巻七・項羽本紀、巻八・高祖本紀
 「臥薪嘗胆」 巻四十一・越王句践世家
 「満を持す」 巻四十一・越王句践世家
 「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」 巻五十五・留侯世家など
 「菅鮑の交わり」 巻六十二・菅晏列伝
 「鳴かず飛ばず」 巻六十六・淳干髠列伝
 「士は己を知る者のために死す」 巻八十六・刺客列伝
 「傍若無人」 巻八十六・刺客列伝
 「国士無双」 巻九十二・淮陰侯列伝
 「背水の陣」 巻九十二・淮陰侯列伝
 「右に出ずる者なし」 巻百四・田叔列伝
 「流言蜚語」 巻百七・魏其武安侯列伝

 なお、この「太史公書」こと「史記」は、平安時代の清少納言が「枕草子」で記録し、紫式部が「源氏物語」で詩文を掲載した。また、徳川家康は駿府に引退した時には「史記」を愛読し、江戸城の文庫に収蔵した。そして、徳川光圀は少年時代に「史記」を読んで感動し、「大日本史」を編纂した。また、頼山陽も「史記」に触発されて「日本外史」を創出した。これら「大日本史」「日本外史」も司馬遷が創出した紀伝体で表現されている。

【参考】中国哲学書電子化計画



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)三月作成