『唐宋八大家文讀本』(とうそうはちたいかぶんどくほん)

    


タイトル:唐宋八大家文讀本(とうそうはちたいかぶんどくほん)

著者:沈徳潛

出版書写事項:嘉永七年(1854年)七月官許
       安政二年(1855年)十月刻成
       (早稲田大学所蔵本と同等)
       玉巖堂 高斎精一蔵版

形態:三十巻全十六冊 和装大本(B5版)

版心書名:増評八大家文讀本

増評:頼山陽

頒行書林:和泉屋金右衛門

三都書物問屋:京  小川太左衛門 出雲寺文次郎
       大阪 秋田屋太右衛門 河内屋喜衛門 河内屋茂兵衛
       江戸 出雲寺万次郎 須原屋茂兵衛 須原屋伊八
          須原屋新兵衛 山城屋佐兵衛 岡田屋嘉七
          英文蔵 和泉屋吉兵衛

目録番号:koten-0020001



唐宋八大家文讀本』の解説

 今回紹介する「唐宋八大家文讀本」は、清国の沈徳潛(1673年~1769年)が編纂した三十巻全十六冊の書籍である。唐時代には八大家の筆頭に掲げられた韓愈やその趣旨に賛同した柳宗元が、当時流行していた華美な四六駢儷体(べんれいたい)に対して、質朴たる古文を尊ぶべきであると主張した古文復興運動が展開され、六朝時代の老荘趣向を改め、経世済民を旨として積極的に 社会と交わる流れが確立した。その意(こころ)が北宋の欧陽脩に受け継がれ、その門人である曾鞏・王安石・蘇洵・蘇軾・蘇轍 が古文復興の精神を受け継ぎ散文の主流を形成し、文章の模範型ともなり、科挙試験の教科書としても定着したものである。

 そして、その意(こころ)を汲んだ日本の頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832年)が上段に解説を加え増評し、その精神を受け継いで日本に伝播させたものである。風流な文章ではなく国家論・政治論・官僚論・人材論などが展開されていることもあり、この書籍は幕末の志士たちにも多大な影響を与えた書籍でもある。なお、頼山陽については「頼山陽 関連目録」で解説したので省略する。また、この書籍には玉巖堂の刻印があるが、江戸時代後期の江戸両国の書店主で儒学者の和泉屋金右衛門(太田玉巖)のことである。

 ここでは、参考までに「唐宋八大家」の八人の略伝を記載しておく。

韓愈(かんゆ・768年~824年)は、韓文公とも呼ばれ、唐時代を代表する思想家・詩人である。古文復興運動は、当時の低級な崇仏思想を批判して儒教の復興を推進した運動でもある。そのため憲宗皇帝に疎まれ左遷された。その後、穆宗皇帝に認められて儒教復興に力を注いだ。六朝以前の古文に学ぶ古文復興運動に賛同した柳宗元と共に「韓柳」とも呼ばれ、韓愈の薫陶を受けた「韓門の弟子」と呼ばれる詩人たちを輩出したことでも有名である。

柳宗元(りゅうそうげん・773年~819年)は、日本では河東先生とも呼ばれ、韓愈と共に古文復興運動を推進した唐時代を代表する思想家・詩人である。保守派と対決して敗れ政治犯の汚名を着せられて度々左遷された逸材であり、自然派散文詩人でもある。また、「長恨歌」「白氏文集」で有名な新楽府運動を推進した白居易(はくきょい・772年~846年)とは同時代を生きた。

欧陽脩(おうようしゅう・1007年~1072年)は、北宋建設に力を注いだ政治家・詩人・歴史学者である。欧陽脩は裕福ではない家庭に生を受け、独学で科挙試験の合格を勝ち取った秀才である。改革派の范仲淹を弁護して左遷されるなど数回の左遷を経験して、返り咲く度に中央の要職に就任するという逸材であった。唐宋八大家の蘇洵や蘇軾や蘇轍や王安石は彼に登用された逸材たちである。

曾鞏(そうきょう・1019年~1083年)は、北宋時代の散文詩人で、国家財政の経費削減を提唱し民政に心を砕いた政治家でもあった。同門で新法律の推進派であった王安石とは交友関係を保ち、堅実な議論を重ねたといわれている。詩文においても華麗さはないが典籍の整理などには優れた才能を発揮したようである。

王安石(おうあんせき・1021年~1086年)は、北宋時代の政治家・散文詩人である。新法律を制定するのに若手の官僚たちを登用し、政治改革のリーダーとして特権階級(地主商人など)と衝突した勇士である。また、「万言書」と呼ばれる政治改革の上奏文は彼を指す代名詞ともなった。散文詩人としては、北宋第一の「七言絶句」を創作すると評価された。そして、儒教の「周礼」「詩経」「書経」に対する新解釈を推進した立役者でもある。

蘇洵(そじゅん・1009年~1066年)は、老泉と号した北宋時代の文人である。唐宋八大家の蘇軾や蘇轍の父でもある。六経百家の学問に精通し、欧陽脩に「権書」などの著書を献上したことで有名である。気骨ある文章を創作し文章・書道の名人と呼ばれた。

蘇軾(そしょく・1036年~1101年)は、号の東坡居士から蘇東坡(そとうば)とも呼ばれた北宋時代の政治家・詩人・書家である。特に、「前赤壁賦」「後赤壁賦」は有名である。「赤壁賦」は三国志で有名な古戦場の「赤壁」を詠ったとされるが、実際はちがうようである。現代では蘇軾が詠んだ場所を「文赤壁」とし、古戦場の場所を「武赤壁」と呼んでいる。また、書家としても有名で、二大宗師と呼ばれる王羲之(おうぎし・303年~361年)と顔真卿(がんしんけい・709年~785年)の書風を学んだ。そして、「資治通鑑」で有名な司馬光(しばこう・1019年~1086年)と激しい議論をして敗れ、孤立した蘇軾は新法派が実権を握ると左遷追放された。

蘇轍(そてつ・1039年~1112年)は、北宋時代の文人で官僚でもある。蘇洵の子で蘇軾の弟である蘇轍の三人をあわせて「三蘇」と呼ぶ場合もある。兄の蘇軾と連座して左遷されたが、復帰した後も度々上書進言して終に左遷されてしまう。辞官した後は経史諸子の研究に没頭し沈静簡潔な人柄のまま他界したといわれている。

 なお、この書籍は三都(京・大阪・江戸)の大物書物問屋が参画し頼山陽が増評したこともあり、江戸末期から明治期にかけて知識人の間では盛んに読まれた。150年前の安政期に発行された貴重な書籍で、ベストセラーになった書籍でもある。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)八月作成