『唐詩選』(とうしせん)

    


タイトル:唐詩選(とうしせん)

著者:李攀龍

叙:済南李攀龍

出版書写事項:慶應元年(1884年)四月

形態:七巻全三冊 和装小本(ポケット版)

版:大仏久遠堂蔵版

目録番号:koten-0020006



唐詩選』の解説

 「唐詩選」は、中国の明国時代の李攀龍(りはんりょう・1514年~1570年)が盛唐時代の漢詩から厳選して編纂した書籍である。この選集は、彼の死後明国末期に発刊され、清国時代には郷塾と呼ばれていた学習塾の教科書として盛んに活用された書籍でもある。しかし、清朝の乾隆帝が編纂させた「四庫全書総目提要」で「民間の書籍で偽作である」と断定されて中国では人気が衰えた。

 李攀龍は、宋詩が持て囃されていた当時において盛唐詩を推奨した古文辞派に属し、盛唐時代の杜甫・李白・王維などを愛した詩人である。頼山陽の「日本楽府」で紹介した李東陽(1447年~1516年)が推進した「擬古主義」(唐時代の詩文を模範として擬古調で作詩すること)の流れを推進した一人でもある。彼は進士となって地方官を歴任するが官吏生活には馴染めなかったらしく、郷里の歴城(山東省済南市)に帰って隠遁生活を楽しみ母の孝養に励み郷里で病没した。

 「唐詩選」に収録された古体詩は、目録によれば巻之一に五言古十四首・巻之二に七言古三十二首・巻之三に五言律六十七首・巻之四に五言排律四十首・巻之五に七言律七十三首・巻之六に五言絶句七十四首・巻之七に七言絶句百六十五首、集採共計百二十八家、詩選掲載四百六十五首とあり、盛唐時代の杜甫・李白・王維などの作詩が多く掲載され、古文復興運動を推進した唐宋八大家の韓愈は僅かに一首、白居易や杜牧に至っては一首も掲載されていない。

 杜甫(とほ・712年~770年)は、中国最高の文人として「詩聖」と呼ばれた盛唐時代の詩人である。杜一族は「小杜」と呼ばれた杜牧、「老杜」と呼ばれた杜甫、そして杜佑や杜荀鶴など優秀な詩人たちを輩出した家系である。杜甫が蜀漢の都である成都に居住していた時期の作品は、積極的な社会矛盾を指摘する政治批判の題材が多く、「蜀相」(諸葛亮を讃えた詩)などが有名である。そして、その精神は白居易(はっきょい・772年~846年)に受け継がれる。日本では俳聖の松尾芭蕉(寛永二十一年・1644年~元禄七年・1694年)が杜甫に傾倒していたことは有名である。

 李白(りはく・701年~762年)は、蜀漢の地に居住し杜甫との交友関係を深めた。字は太白、号は青蓮居士、「詩仙」と呼ばれた盛唐時代の詩人である。李白の詩は、奔放で変幻自在な人格そのものが顕れている作品が多い。杜甫以外にも孟浩然(もうこうねん・689年~740年)との交友は有名である。遣唐留学生の安倍仲麻呂(698年~770年)との親交は「晁衡卿を哭す」の詩で死を悼んだことでも有名である。

 王維(おうい・701年~761年)は、盛唐時代の高級官僚で、孟浩然・柳宗元と並び称される自然派詩人で、「詩仏」と呼ばれた仏教徒でもあった。王維は書家・画家・音楽家としても有名で、殊に画家としては、「南画の祖」と尊敬されている。また、琵琶の演奏者としても有名であった。阿倍仲麻呂の日本帰国の際には送別の詩を贈っている。

 杜甫・李白・王維の三詩人は、同時代を生きて励ましあいながら人生を謳歌し、麗しい交友関係を構築している。

 「唐詩選」は、日本への伝来時期は不明であるが、江戸時代には川越藩の柳沢吉保に重用された荻生徂徠(おぎゅうそらい・寛文六年・1666年~享保十三年・1728年)が「唐詩選」を高く評価して古文辞学派を推進し全国各藩に伝播してベストセラーとなった。

 江戸時代の中期に活躍した荻生徂徠は、将軍の侍医の家に生まれたが、父が五代将軍の徳川綱吉の怒りに触れ千葉の上総に転居したため、徂徠も青年期を南総で過ごし勉学に励んだ。そして後には、江戸の芝に私塾を開いたが貧困生活に甘んじた。その折に近所の豆腐屋に援助を受けた逸話が、落語や講談の「徂徠豆腐」として残っている。また、「赤穂浪士事件」に際しては彼の主張した「義士切腹」が採用され、浅見絅斎・林鳳岡・室鳩巣らの反対論を押し切ったことは有名である。

 荻生徂徠の晩年は、徳川吉宗の信任を得て「徂徠派」を構築することになる。徂徠の推進した「古文辞学」は、「朱子学は憶測に基づいた虚妄の説」であると主張し、中国古典を朱子学に基づかない解釈で展開した。そして、政教分離(政治と宗教道徳の分離)の思想を徳川吉宗に進言した。この思想は、江戸幕末に隆盛した「経世済民」の思想に大きな影響を与えることになる。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)十月作成