『竹取翁物語解・竹取物語考』

    


タイトル:『竹取翁物語解・竹取物語考』

『竹取翁物語解』(たけとりのおきなものがたりかい)
 著者:田中大秀
 序:本居大平

『竹取物語考』(たけとりものがたりこう)
 著者:加納諸平

出版書写事項:昭和九年(1934年)発行

形態:合冊(A5版)

編輯者:國文名著刊行会

発行者:簗瀬富次郎

発行所:三美堂印刷所

目録番号:nihon-0030004



竹取翁物語解』の解説

 今回紹介する國文名著刊行会が発行した田中大秀著の『竹取翁物語解』と加納諸平著の『竹取物語考』は、国文学の研究が盛況となった昭和前期に刊行された書籍である。古文学注釈の業は遠く平安時代に始まり徳川時代に極盛に達した。文学博士折口信夫(おりくちしのぶ・明治二十年・1887~昭和二十八年・1953)が編纂したものを中心に、国文書古註釈書の中で特に貴重なものを選び刊行したもので、大学の教科書にも採用された貴重な書籍でもある。

 なお、私こと樹冠人の所蔵している書籍には「南軒所蔵」の印影があり「田原南軒」が所蔵していたものである。田原南軒は、日宇校舎国語科教員で、長崎県佐世保市の市歌や校歌を多数手がけている。著作には『忠臣蔵の思想』『源氏物語の研究』『源氏物語しのぶ草』『源氏物語愚管抄』『源氏物語とともに』『手枕の研究』と古典籍に造詣が深かった。

 『竹取物語』は『竹取物語読本』で解説したように、日本における最古の物語と伝承されているが、作者・成立年代・成立過程などは不詳である。原本は現存していないが、室町時代の後光厳天皇が書写した断簡や安土桃山時代の天正年間の奥付のある完本が存在している。また、平安時代前期の貞観・延喜年間(890年ごろ)に成立したとの伝承が通説となっている。

 『竹取翁物語解』は、江戸時代後期に活躍した国学者の田中大秀(たなかおおひで・安永六年・1777~弘化四年・1847)が過去に注釈された諸説を整理して集大成し、文政九年(1826年)に成立した『竹取物語』の注釈書である。この『竹取翁物語解』は当時から評判になった書籍で、現代でも古典籍に興味を持つ研究者にとっては必読の書でもある。

 田中大秀は、江戸時代後期の日本の国学者で、飛騨高山の薬種商の三男として生まれた。伊勢神宮に参拝の途次に、京都滞在中の本居宣長(もとおりのりなが・享保十五年・1730~享和元年・1801)を訪問し即座に入門を果たした。宣長の講釈を熱心に受けて帰郷後まもなく宣長の訃報に接し、宣長の嗣子である本居大平(もとおりおおひら・宝暦六年・1756~天保四年・1833)とは生涯の師友となり、大平が『竹取翁物語解』の序も担当した。著書には『土佐日記解』『落窪物語解』なども著述した。

 『竹取翁物語解』は、序の後に、巻首・附録・巻第一から巻第五・跋で構成されている。巻第一には、「かぐや姫おひたち」「つまどひ」、巻第二には「佛の御石の鉢」「蓬莱の玉のえだ」、巻第三には「火鼠の裘」「龍の首の珠」、巻第四には「鷰の子安貝」「御狩のみゆき」、巻第五には「天の羽ごろも」と、詳細に解説している。




竹取物語考』の解説

 『竹取物語考』は、江戸時代後期に活躍した国学者の加納諸平(かのうもろひら・文化三年・1806~安政四年・1857)が編纂した『竹取物語』について研究した注釈書である。

 加納柿園こと加納諸平は、江戸時代後期の国学者で、遠江国の造酒を業とし本居宣長の門に学ぶ夏目甕麿の子として生まれたが、紀伊国和歌山の医師・加納伊竹の養子となった。紀州徳川家に仕えた本居大平(もとおりおおひら・宝暦六年・1756~天保四年・1833)に国学を学び、国学所が創設されるとその総裁に就任した。また、和歌に優れたこともあり地方歌壇の振興にも尽力した。

 『竹取物語考』では本居宣長・本居大平・田中大秀の解釈を参考に、かぐや姫に求婚する五人の求婚者である「石作皇子」「くらもちのみこ」「右大臣阿倍のみうし」「大納言大伴のみゆき」「中納言石上の麻呂」の名前から、この五人は奈良時代の「壬申の乱」に関係のある人物の名前であると提唱し集大成した。

 加納諸平は以下のように推定している。

 「石作皇子(いしづくりのみこ)」については、石作氏を一族に持つ宣化天皇の四世孫に当たる文武朝に活躍した左大臣多治比嶋と推定した。多治比嶋(たじひのしま・推古三十二年・624~大宝元年・701)は、飛鳥時代に活躍した貴族で、志摩・志麻とも呼称した正二位左大臣で、宣化天皇の直系子孫で最高位の真人の姓も賜与された。

 「くらもちのみこ」については、母が車持氏である藤原不比等と推定した。藤原不比等(ふじわらのふひと・斉明五年・659~養老四年・720)は、飛鳥時代から奈良時代に活躍した貴族で、元明朝の右大臣で「尊卑分脈」などでは天智天皇のご落胤と伝わっている貴族である。不比等とその子である藤原四兄弟によって藤原氏の繁栄の基礎が構築された。

 「阿倍のみうし」については、左大臣阿倍内麻呂の子である阿倍御主人と推定した。阿倍御主人こと従二位右大臣布勢御主人(ふせのみうし・舒明七年・635~大宝三・703)は、「壬申の乱」における功臣の一人で、布勢氏は阿倍七族の氏上で、天武・持統・文武朝に活躍して太政官の頂点に立った。

 「大伴のみゆき」については、大伴金村大連の玄孫で右大臣大伴長徳の子である大伴御行と推定した。大伴御行(おおとものみゆき・大化二年・646~大宝元年・701)は、阿倍御主人と同様に「壬申の乱」における功臣の一人で、持統朝時代に氏上となり御主人と並んで正廣肆を贈られ、文武朝では正廣参を贈られ多治比嶋が首座のときに大納言に就任した。死を迎えた大宝元年には正廣弐右大臣が追贈された。

 「石上の麻呂」については、物部連中納言石上朝臣麻呂と推定した。石上麻呂(いそのかみのまろ・舒明十二年・640~霊亀三年・717)も「壬申の乱」における功臣の一人で氏姓は物部連である。壬申の乱では大友皇子の側近で皇子が自殺したときにも追随していた。赦免されて以後は中納言から大納言・右大臣・左大臣となり太政官の最高位まで昇りつめた。『竹取物語』の本文では「中納言石上のまろたり」とあるので、この物語は大納言となった大宝元年以前の中納言時代に作成されたのではないかとの推定の根拠にもなっている。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十六年(2014年)一月作成