『河海抄・花鳥餘情・紫女七論』

    


タイトル:『河海抄・花鳥餘情・紫女七論』

『河海抄』(かかいしょう)
 著者:四辻善成

『花鳥餘情』(かちょうよじょう)
 著者:一条兼良

『紫女七論』(しじょしちろん)
 著者:安藤為章

出版書写事項:明治四十一年(1908年)発行
       国文註釈全書

形態:全一冊(A5版)

校訂編輯者:室松岩雄

発行者:目黒和三郎

印刷者:高塚慶次

印刷所:三協印刷株式会社

発行所:國學院大学出版部

目録番号:nihon-0030005



 今回紹介する明治期の國學院大學出版部が刊行した国文註釈全書には、四辻善成著述『河海抄』と一条兼良著述『花鳥餘情』と安藤為章著述『紫女七論』が掲載されている。これらの著述作品は、『源氏物語』並びに「紫式部」の注釈書・人物評論書である。

 なお、私こと樹冠人の所蔵している書籍には「紫尾山文庫」の印影と「田原南軒」の著名があり南軒が所蔵していたものである。田原南軒は、日宇校舎国語科教員で、長崎県佐世保市の市歌や校歌を多数手がけている。著作には『忠臣蔵の思想』『源氏物語の研究』『源氏物語しのぶ草』『源氏物語愚管抄』『源氏物語とともに』『手枕の研究』と古典籍に造詣が深かった。

河海抄』の解説

 『河海抄(かかいしょう)』は、南北朝から室町時代初期に四辻善成(よつつじよしなり・嘉暦元年・1326~応永九年・1402)が著述した全二十巻二十冊で構成された『源氏物語』の注釈書である。貞治年間に室町幕府第二代将軍の足利義詮(あしかがよしあきら・元徳二年・1330~正平二十二年・1367)の命により、善成は「正六位上物語博士源惟良」の名で献上した。

 『河海抄』以前の注釈書は鎌倉時代の河内系書籍など一部分のみを注釈したものが存在し、本格的に『源氏物語』を注釈した古注釈は『河海抄』以外はほとんど現存していない。また、『河海抄』は、宮中で源氏物語の講義をする内容をまとめたものである。善成が永年考察を書き加え、後年には本書の秘説を別冊化した『珊瑚秘抄』も作成している。また、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』の中でこの『河海抄』を「源氏物語の注釈の第一」としている。

 四辻善成は、南北朝時代から室町時代前期にかけて活躍した学者で歌人でもある。順徳天皇の曽孫で尊雅王の子であり四辻宮家に生まれた公家である。善成は勅撰歌人としても知られ、医者で河内流の源氏学者でもある二条派歌人の丹波忠守(たんばのただもり・文永七年・1270~康永三年・1344)の伝授を受けて『河海抄』を著述したのである。大臣・将軍・地方国人にも古典を講じて人望が厚かったと伝わっている。順徳源氏の姓を賜与され臣籍に降下し、関白二条良基の猶子となる。従三位・権大納言・従一位・左大臣と順調に昇進するが、応永年間に突如出家してしまう。

 この著作の内容は、丹波忠守の影響もあり「河内本」を定本として、七流派を統一して古注釈を集大成した。そして、『源氏物語』の著作経緯や物語の時代設定や物語の名称由来、また、紫式部の人物伝や墓の旧跡、物語と歌道の関係性について広範な注釈を講じた。源氏物語の成立由来については「石山寺伝説」を述べており、巻数の問題についても『源氏物語湖月抄』でも触れたように、天台六十巻に基づく六十巻説を提示した。




花鳥餘情』の解説

 『花鳥餘情』は、従一位摂政関白太政大臣であった一条兼良(いちじょうかねよし・応永九年・1402~文明十三年・1481)が著述した全三十巻の『源氏物語』の注釈書である。前述の四辻善成が著述した『河海抄』を訂正補足して、事実考証よりも文意の理解に重点を置いた注釈書である。

 『花鳥餘情』は、四辻善成の『河海抄』と共に源氏物語の注釈書として著名であるが、此本は加筆訂正本系統に属する著者校合の浄書本として貴重である。『花鳥餘情』は、兼良が応仁の乱を避けて奈良滞在中に書かれ、文明四年(1472年)に成立した。

 また、六年後の文明十年(1478年)に、後土御門天皇の勅命に応えて書写された「龍門文庫本」の第一冊は、兼良の自筆であると伝わっている。「阪本龍門文庫」には、貞治四年(1365年)の奥書のある『紫明抄』五冊と共に同じ木箱に収納されている。阪本龍門文庫袋綴装の冊子本は、本文料紙は楮紙を用い、本文は半葉十三行の平仮名交り文で、注釈は本文より二字下げに書かれた重要文化財に指定されている書籍である。

 一条兼良は、室町時代の公卿で古典学者であった。関白左大臣一条経嗣の六男として生まれ、官位は従一位で摂政関白太政大臣も勤め、学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与した。『日本書紀纂疏』も著したことで有名であるが、応仁の乱が勃発した時には、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」が焼失した。奈良興福寺大乗院の門跡である尋尊を頼って身を寄せ、奈良でも講書著作に力を入れて、『花鳥余情』を完成させた。

 兼良は、当時の人々から「日本無双の才人」と評され、兼良自身も「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、有職故実の研究から和歌・連歌・能楽などにも及んだようである。また、宋学の影響を受け神仏儒教の三教一致を説き、古典分野においては従来の研究を集大成した。また、彼の死に対しては「五百年来この才学無し」とまで惜しまれた。




紫女七論』の解説

 『紫女七論(しじょしちろん)』は、江戸時代初期に活躍した水戸の国学者である安藤年山こと安藤為章(あんどうためあきら・万治二年・1659~享保元年・1716)により著述された「紫式部」並びに『源氏物語』に関連した評論を述べた注釈書である。元禄十六年(1703年)に成立した『紫女七論』の「七論」とは、作者に関する二論と物語に関する五論の合計七論に由来している。

 安藤右平為章は、江戸時代初期から中期に活躍した国学者である。伏見宮に仕える安藤朴翁の次男として丹波国桑田郡に生まれ、儒学を伊藤仁斎に、和歌を中院通茂に学んだ。後に、水戸藩の徳川光圀に招かれて彰考館の寄人となり『大日本史』などの編纂に従事した。そして、光圀の命令で契沖に万葉集の註釈を教わり、ついには契沖の門人となる。『近世畸人伝』の作者である伴蒿蹊は「人のなし難き所にして、吾が天を安んずるの節義称すべし」と評価している。

 為章が『万葉代匠記』の著者で有名な契沖(けいちゅう・寛永十七年・1640~元禄十四年・1701)に『万葉集』の講義を受けた折に、『源氏物語』について語り合った内容に同意点が多かったことから自説を一冊の書物に仕上げることを決意した。『紫女七論』は、『源氏物語』と「紫式部」に関する初めての本格的作家論であるとされている。

 為章は、それまでの注釈で注目されていなかった『紫式部日記』を解釈に取り入れて、「紫式部」の生没年や源氏物語の執筆時期などについて考証を行った。為章は水戸藩における修史事業に携わる中で数多くの公卿らの日記に接して、『紫式部日記』の詳細を取り入れたことは画期的であり、「源氏物語のおこり」についても、「紫式部と源高明とが安和の変以前から知り合っていたとすると式部は五十歳を過ぎてから娘の大弐三位を生んだことになる。」などの鋭い指摘をしたことは研究史上に意義を持つ。

 『紫女七論』は、源氏物語の注釈史の中で新注である契沖著の『源注拾遺』と並び称されており、後学の本居宣長などの源氏物語研究に大きな影響を与え、『源氏物語玉の小櫛』において、本論を必読書として挙げている。また、「本居宣長記念館」には国の重要文化財に指定されている本居宣長が自ら書写し手元に置いていた写本が現存している。

 七論の構成は、序文と紫家系譜を示したのちに、七項目に分けて旧説を批判する体裁で論述されている。

其一「才徳兼備」⇒『紫式部日記』に描かれた人物評論において良い評価を受けている人物と『源氏物語』の作中で良い評価を受けている人物の描写が同じであることから、紫式部が抱いていた人物評価を語っている。

其二「七事共具」⇒紫式部は『源氏物語』の作者として相当である七つの理由を備えているとしている。七つの理由とは、「女性であること。」「貴族の中流の階級の生まれであること。」「父親をはじめ高名な学者・文人の多い学問の家系に生まれたこと。」「天才であったこと。」「学芸に通じていること。」「有職故実に通じていること。」「地理に明るいこと。」であった。

其三「修撰年序」⇒『紫式部日記』や『栄花物語』などの記述から、いつ頃『源氏物語』が著されたのかについて考証して、夫である藤原宣孝と死別した後、つまり、寛弘二・三年頃(宮仕え前の三・四年間の寡居生活中)に書き始め、宮仕えまでにはその大半が完成していたのではないかと推論した。

其四「文章無雙」⇒清少納言の『枕草子』と比べても『源氏物語』は名文である。

其五「作者本意」⇒作者が何を描きたかったかについては、物事を直接に描写・叙述・形容などしないで、喩えを用いて理解を容易にし、表現に味わいを加える修辞法である「諷喩(ふうゆ)法」を使用していると提唱した。

其六「一部大事」⇒作中に登場する「冷泉院」や「薫」の行動を弁護している点が重要である。

其七「正伝説誤」⇒以前の紫式部の伝説については、『紫式部日記』などから確認できるさまざまな事実と相違していると批判した。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十六年(2014年)三月作成