『源氏物語湖月抄』(げんじものがたりこげつしょう)

    


タイトル:源氏物語湖月抄(げんじものがたりこげつしょう)

著者:北村季吟

出版書写事項:明治三十八年(1905年)第廿七版発行

形態:八巻全八冊 (B6変形版帙入り)

増註訂正者:猪熊夏樹

発行者:石田忠兵衛

印刷者:蒲田徳兵衛

發兌元大賣捌人:積善館本店・積善館支店・辻本修學堂

目録番号:nihon-0010006



源氏物語湖月抄』の解説

 「源氏物語(げんじものがたり)」は、平安時代中期に中宮彰子こと藤原彰子(ふじわらのしょうし・あきこ・永延二年・988~承保元年・1074)に仕えていた紫式部(むらさきしきぶ・生没年不詳)が執筆したと伝わる長編の物語小説である。この物語は、江戸期には盛んに研究出版されたが、明治期には発禁本に指定されて困難な時代を乗り越え、昭和期に復活隆盛した経緯がある。また、「作者の特定」「書名の確定」が困難など不明な点が多いこともあり、古来より研究議論が絶えない物語であるが、不思議なことに現在では「世界最古の長編物語小説」の位置を確保しているようである。

 紫式部は藤原北家の藤原為時(ふじわらのためとき・天暦三年・949?~長元二年・1029?)の娘で、「三十六歌仙」の一人であり、「小倉百人一首」にも登場する歌人であると推定されている。また、紫式部と同時代を生きたと推定されている「枕草子」の著者である清少納言とのライバル関係の議論も、研究者の間で論争が絶えない。しかし、紫式部が中宮彰子に仕えたのは、清少納言が宮仕えを退いてから後のことで、二人は一面識も無いはずである。ただし、紫式部が「枕草子」の存在を知っていて、それを上回る作品の創作を決意したことは想定可能である。

 「源氏物語」については、紫式部の存在自体が特定できない困難があり、室町時代初期の貞治年間(1362~1367年)に成立した「河海抄」などの古い伝承では、「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在していて、その中で最も優れているのが「光源氏の物語」であると解説している。しかし、現在に至っては「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することはできない。にもかかわらず、現在使用可能な2000円札には「紫式部肖像」と「源氏物語絵巻」が印刷されている。

 古注釈書である「河海抄」は、南北朝から室町時代に活躍した四辻善成(よつつじよしなり・嘉暦元年・1326~応永九年・1402)が著述した「源氏物語」の注釈書である。善成は「正六位上物語博士源惟良」の名で、貞治年間に第二代将軍の足利義詮(あしかがよしあきら・元徳二年・1330~正平二十二年・1367)に献上した。「河海抄」以前の注釈書は鎌倉時代の河内系書籍など一部分のみを注釈したものが存在し、本格的に「源氏物語」を注釈した古注釈は「河海抄」以外はほとんど現存していない。

 「源氏物語湖月抄」は、江戸時代の初期に北村季吟(きたむらきぎん・寛永元年・1625~宝永二年・1705)が著述した「源氏物語」の注釈書である。なお、「湖月抄」までの注釈は「旧註」と呼ばれているが、賀茂真淵(かものまぶち・元禄十年・1697~明和六年・1769)や与謝野晶子(よさのあきこ・與謝野晶子・明治十一年・1878~昭和十七年・1942)などの後学の学者たちに大きな影響を与えている。なお、「抄」とは、「書き写す」「抜書きする」「注釈書」などの意味を持つ言葉である。

 北村季吟は、近江国野洲郡に生まれた医者で、湖月亭と号した。季吟は貞門派俳諧の新鋭と呼ばれ、和歌や歌学を学び、「枕草子春曙抄」「土佐日記抄」「伊勢物語拾穂抄」などの注釈書を著述した。江戸幕府の歌学方として仕え、北村家が江戸幕府の歌学方を世襲することになる。ちなみに、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉(まつおばしょう・寛永二十一年・1644~元禄七年・1694)は季吟の門人である。

 今回紹介する訂正増註「源氏物語湖月抄」は、猪熊夏樹(いのくまなつき・天保六年・1835~大正元年・1912)が訂正増註した書籍で、源氏物語は明治期には発禁本に指定された経緯がある中で、生き残った貴重な書籍の一つでもある。この書籍は、首巻を含め第一巻から第七巻の全八巻で構成されている。猪熊夏樹は、江戸幕末から明治期に活躍した讃岐出身の国学者で、宮中御講書始には「本朝六國史」の「日本書紀」を進講し、京都の白峰神宮の造営に関ったことは有名であった。

 私こと樹冠人が「源氏物語」で特に印象に残ったことは、主人公である光源氏が天台宗の雲林院(現在は大徳寺塔頭)に参籠し、「天台六十巻」を読み修行に励んだことが表現されている第十帖「賢木」の場面であった。ちなみに、雲林院が建っていた周辺は「紫野」と呼ばれ、紫式部の墓所も現存している場所で、紫式部もこの周辺で生まれ育ったと伝承されている。

 実は、「源氏物語は六十帖で構成されていて、現在流布している五十四帖の他に、秘伝として許された者のみが読むことが出来る六帖が存在した。」と、伝えられていた。この辺の経緯を「湖月抄」には、「此物語の冊数天台六十巻になぞらへて源氏六十帖といへり、其中に并の巻ありて廿八帖になる也、是を法華経廿八品に擬す、天台六十巻と云は 玄義十巻・写箋十巻・文句十巻・疏記十巻・摩訶止観十巻・弘決十巻」と説明して、「天台六十巻」と「法華経廿八品」に関して解説している点は興味深く、研究資料としては参考となった。

 また、「湖月抄」では「河海抄」以外に、三条西公条(さんじょうにしきんえだ・文明十九年・1487~永禄六年・1563)が注釈した「明星抄」も参照され引用されている。公条は、戦国時代の公卿で国学者である。

 「明星抄」は、公条の父の三条西実隆(さんじょうにしさねたか・康正元年・1455~天文六年・1537)が著述した「源氏物語」の注釈書である「細流抄」と、父から「源氏物語」の奥義を継承した「聞書」が基になって集大成された著述である。公条は、古典の注釈書である「伊勢物語抄」「百人一首抄」、紀行文としては「高野山参詣記」「吉野詣記」「三塔巡礼記」などを著述して多才であった。後奈良天皇に「古今和歌集」を進講するなど、当時の文化人として重用された人物である。ちなみに、三条西家の玄孫には春日局(かすがのつぼね・斎藤福・天正七年・1579~寛永二十年・1643)が存在している。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十四年(2012年)七月作成