『元祖化導記』(がんそけどうき)

    


タイトル:『元祖化導記』(がんそけどうき)

著者:日朝

出版書写事項:昭和期

版心:寛文六年(1666年)版

形態:全二冊 和装大本(B5版)

目録番号:soka-0020001



元祖化導記』の解説

 『元祖化導記』は、身延山久遠寺十一世の行学院日朝(応永二十九年・1422~明応九年・1500)の著作で、文明十年(1478年)に成立した室町時代を代表する日蓮大聖人に関する伝記本である。

 日蓮大聖人の没後、身延山久遠寺は門弟が諸国へ教線を拡大するが、各地で独立して一門を形成していったために衰退し、日向国出身で九州出身初の日蓮門下僧で薩摩阿闍梨と称した七世日叡(延慶二年・1309~応安二年・1369)の頃に中興された。

 日朝は、身延中興の三師の一人と位置づけられている室町時代の日蓮宗身延派の僧侶で、静岡県伊東市出身で比叡山や南都に遊学して天台教学のほか諸宗の教学を修め、寛正三年(1462年)に身延山久遠寺十一世法主となり、貫主在任中に久遠寺の伽藍を西谷から現在地に移転して整備し、宗門の法制や年中行事の整備、組織の制定、門前町の整備に尽力したと伝わっている。

 日蓮大聖人の伝記として整った体裁をとったのは、この『元祖化導記』が初めてではないかと言われているが、文明十年(1478年)の成立で、大聖人のご入寂から196年もの永い年月が経過しているので、ご遺文の収集には苦労したと思う。

 大聖人滅後の数十年の間で、「伊豆流罪から入滅までの略年譜」「葬儀に参加した門下の名前」「六老僧の名を記した正文書」が記録されている日興上人著述の『宗祖御遷化記録』以外は信頼ができる『日蓮大聖人の伝記』に関する資料は乏しかった。

 実は、大聖人から門徒に贈られたお手紙の御書は多数現存するが、不思議なことに、門徒間での書簡で大聖人の事績が記録された手紙は殆ど現存していないのである。

 また、日朝は『元祖化導記』の中で「或る記に云く」と引用しているが、一説には六老僧の日向(建長五年・1253~正和三年・1314)が書いた『大聖人一期行状日記』ではないかといわれているが、『大聖人一期行状日記』も現存していないので立証することができない。

 「身延文庫」には、日朝が研究書写した録内・録外の御書を始め、法華経関連の注釈書である『補施集』『法華草案抄』などが保管されているが、日朝は、保存されていた大聖人の遺文を収集しその注釈書である『御書見聞』を作成し、『王代記』『太平記』などの資料も補足して、『元祖化導記』(上下二巻)を著述したことが推察できる。

 実は、『元祖化導記』の原本は現存してなく、日朝遷化の明応九年(1500年)年に日定によって書写したものを、順幸が転写した本が「身延文庫」に保管されている。

 ちなみに、『元祖化導記』に引用された大聖人の御書を列記すると、上巻には「波木井殿御書」「妙法比丘尼御返事」「清澄寺大衆中」「聖人御難事」「四恩抄」「宿屋入道許御状」「一昨日御書」「頼基陳状」「行敏御返事」「行敏訴状御会通」「種種御振舞御書」で、下巻には「日妙聖人御書」「法華行者値難事」「千日尼御前御返事」「最蓮房御返事」「光日房御書」「撰時抄」「報恩抄」「富木殿御書」「庵室修復書」「四條金吾殿御返事」と全21御書が引用されている。

 今回紹介する『元祖化導記』は、寛文六年(1666年)に栗山弥兵衛によって平楽寺村上勘兵衛が版本したものを、明治になって平楽寺村上勘兵衛が廃業し、大正二年(1912年)に村上書店の井上治作に店を譲渡した「平楽寺書店」が再刊行したもので、レ点混じりの漢文で印刷され、誤字脱字が多い書籍でもある。

 私こと樹冠人が『元祖化導記』を読んで一番気になった個所は、『日蓮大聖人御傳記』でも紹介した日興師の『宗祖御遷化記録』と日朝の『元祖化導記』で大きく相違している「卅一 御葬送行例(列)之次第」であった。

『宗祖御遷化記録』の「御葬礼之事」と『元祖化導記』の「卅一 御葬送行例(列)之次第」の門下の名前等の相違箇所を以下に列記した。
(詳しくは、「遷化記録と化導記の比較(pdfファイル)」を参照)

①『宗祖御遷化記録』では三番「幡(ばん)=布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした仏教祭祀の場で用いられた道具のこと。」左は四条左衛門尉となっているが、『元祖化導記』では三番「幡」左は三郎右衛門となり、九番「御経」金吾殿となっている。ちなみに、『宗祖御遷化記録』で九番「御経」は大覚介である。

②『宗祖御遷化記録』では四番「鐃(にょう)・仏事で使う金属製の銅鑼 (どら) で、ひもで下げ桴 (ばち) で打つ打楽器。」は大田左衛門入道となっているが、『元祖化導記』では四番「鐃」とだけ表記され名前は省略され、七番「燭臺(台)」大田左衛門入道となっている。

③『宗祖御遷化記録』で日興師と日持は左陣を担当しているが、『元祖化導記』では参列の左右が逆に表記され、先陣・後陣が「先陳・後陳」と誤記され、日興師は筑前房に変えられ、日持は紀伊公に変えられている。


【日蓮大聖人の御遷化】

日蓮大聖人の御遷化の状況については、冊子の合わせ目の裏に四老僧(日昭・日朗・日興・日持)の花押が記されている日興師の真筆『宗祖御遷化記録』や『日蓮大聖人御傳記』等から読み取ると、以下のようになる。

大聖人は、建治三年(1277年)の暮れに胃腸系の病を発し、医師でもある四条金吾の治療を受けていたが、一時的には回復しても病状は次第に進行していった。

病状は弘安五年(1282年)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を超えることは不可能と見られる状況になっていた。そこで門下が協議し、冬を迎える前に温泉での療養を勧めることになった。

弘安五年(1282年)9月8日、波木井実長の子弟や門下とともに、実長から贈られた馬で身延を出発し、富士山の北麓を回り、箱根を経て18日に武蔵国荏原郡(現在の東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となった。

大聖人が池上邸に滞在していることを知って、鎌倉の四条金吾こと四条中務三郎左衛門尉頼基・大学三郎こと比企能本や富士の南条時光や下総の富木常忍・大田乗明など主要な門下が参集してきた。

同年9月25日、門下の前で大聖人最後の説法となった「立正安国論」の講義を行われ、10月8日には「弁阿闍利日昭」「大国阿闍梨日朗」「白蓮阿闍梨日興」「民部阿闍梨日向」「伊予阿闍梨日頂」「蓮花阿闍梨日持」の6人を本弟子(六老僧)と定めた。

入滅に先立って大聖人は、自身が所持してきた釈迦仏の立像と註法華経を墓所の傍らに置くことと本弟子6人が墓所の香華当番に当たるべきことを遺言した。

大聖人は、弘安五年(1282年)10月13日、多くの門下に見守られて池上兄弟の館で入滅され、葬儀では『宗祖御遷化記録』に四老僧(日昭・日朗・日興・日持)のみの花押が記されていることから六老僧のうち日向・日頂は不在だったと思われる。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   令和二年(2020年)七月作成