『十一通御書』(じゅういっつうごしょ)

    


タイトル:十一通御書(じゅういっつうごしょ)

著者:日蓮大聖人

出版書写事項:萬治三年(1660年)庚子年仲春吉旦 出版

形態:全一冊 和装大本(B5版)

書林:京都東洞院通三條上町
   平楽寺村上勘兵衛

目録番号:soka-0010003



十一通御書』の解説

 『十一通御書』は、日蓮大聖人(貞応元年・1222~弘安五年・1282)が時の執権であった北条時宗(建長三年・1251~弘安七年・1284)をはじめとする幕府要人や鎌倉の諸大寺の僧たち併せて十一か所に対して送付された書状である。この『十一通御書』を送り公場対決を迫ったが、幕府も七大寺も、大聖人の働きかけを黙殺した。

 今回紹介する書籍の表紙には『日蓮十一通』とあり、本文の表題には『日蓮大聖人十一通之回状』とある。また、今回紹介する書籍は350余年前の萬治年間に出版された貴重な書籍でもある。

 この『十一通御書』の中で諸宗の邪義を破して説かれたのが、「念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)」という、有名な四箇の格言である。しかし、幕府および七大寺の僧は、『十一通御書』に慌てふためき、その重大な警告を無視したのみか、陰では大聖人迫害の策略を練り始めたのである。

 日蓮大聖人が『立正安国論』を提出されてから八年目の文永五年(1268年)閏正月、鎌倉幕府に蒙古国から初めての牒状が到着した。そして、同年八月二十一日に著された「宿屋入道への御状」と同年十月十一日の『十一通の御状(回状)』と同じ日の十月十一日に著された「弟子檀那中への御状」は、同じ背景のもとに著されたものであるが、『十一通の御状(回状)』のみを古来から『十一通御書』と呼んでいるのであるが、参考までに全てを提示しておく。

【宿屋入道への御状】文永五年(1268年)八月二十一日 四十七歳御作 与宿屋光則 於鎌倉

 其の後は書・絶えて申さず不審極り無く候、抑去る正嘉元年〈丁巳〉八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘えたるに念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を作して起す所の災なり、若し此を対治無くんば他国の為に此の国を破らる可きの由勘文一通之を撰し正元二年〈庚申〉七月十六日御辺に付け奉つて故最明寺入道殿へ之を進覧す、其の後九箇年を経て今年大蒙古国より牒状之有る由風聞す等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責めん事必定なり、而るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う、君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか、委細の旨は見参を遂げて申す可く候、恐々謹言。
 文永五年八月二十一日 日蓮 花押 宿屋左衛門入道殿

 宿屋入道こと宿屋光則(生没年不詳)は、鎌倉時代中期の武士で北条氏得宗家被官であり、執権北条時頼の臨終の際には最後の看病を許された得宗被官七人の中の一人である。日蓮大聖人が捕縛されると、日朗と四条頼基の身柄を預かり、自身の屋敷の裏山にある土牢に幽閉した。その後、日蓮大聖人に帰依して自邸を寄進し、日朗(寛元三年・1245~元応二年・1320)を開山として光則寺を創建した。

 『十一通の御状(回状)』こと『十一通御書』とは、「北条時宗への御状・宿屋左衛門光則への御状・平左衛門尉頼綱への御状・北条弥源太への御状・建長寺道隆への御状・極楽寺良観への御状・大仏殿別当への御状・寿福寺への御状・浄光明寺への御状・多宝寺への御状・長楽寺への御状」の十一通を指す。

 この『十一通御書』については、日蓮大聖人が後の建治二年(1276年)三月に御述作の『種種御振舞御書』でも次のように詳しく述べられている。

 「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年〈庚太申歳〉に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし定めて御たづねありていくさの僉義をもいゐあわせ調伏なんども申しつけられぬらんと・をもひしに其の義なかりしかば其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す」

 つまり、「文永五年正月十八日に蒙古からの牒状が届き、かって文応元年に立正安国論で記した他国侵逼難の予言が的中したのである。ゆえに安国論は白楽天の楽府をも仏の未来記をも超越して、これほどの不思議はない。賢王や聖主の時代であるならば、日本第一のお褒めにも与って大師号も頂き、軍議や蒙古調伏の相談もあろうと思ったのに、幕府からは何の沙汰もなかったので、十一通の書状を書き各所へ送ったのである。」との意味である。


【十一通御書】文永五年(1268年)十月十一日 四十七歳御作

【北条時宗への御状】

 謹んで言上せしめ候、抑正月十八日、西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘へたること、立正安国論の如く少しも違はず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当たれり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまへ、然らずんば重ねて又四方より逼め来たるべきなり、速やかに蒙古の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給へ、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諫臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国土の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
 夫此の国は神国なり神は非礼を稟けたまはず天神七代・地神五代の神々・其の外諸天善神等は一乗擁護の神明なり、然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す、法華経に云はく諸仏救世者は大神通に住して、衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現ずと、一乗棄捨の国に於ては豈善神怒りを成さざらんや、仁王経に云はく「一切の聖人去る時七難必ず起こる」と、彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡ぼし・桀紂は竜比を失ひて国位を喪ぼす、今日本国既に蒙古国に奪はれんとす豈歎かざらんや、豈驚かざらんや、日蓮が申す事御用ひ無くんば定めて後悔之有る可し、日蓮は法華経の御使ひなり経に云はく「則ち如来の使ひ、如来の所遣として、如来の事を行ず」と、三世諸仏の事とは法華経なり、此の由方々へ之を驚かし奉る一所に集めて御評議有りて御報に預かるべく候、所詮は万祈を抛ちて諸宗を御前に召し合はせ仏法の邪正を決し給へ、澗底の長松を未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり。
 三国に於て仏法の分別は殿前に在り所謂阿闍世・陳・隋・桓武是なり、敢へて日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐々謹言。
 文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押 謹上 宿屋入道殿

【宿屋左衞門光則への御状】

 先年勘えたるの書安国論に普合せるに就て言上せしめ候い畢んぬ、抑正月十八日西戎大蒙古国より諜状到来すと、之を以て之を按ずるに日蓮は聖人の一分に当り候か、然りと雖も未だ御尋に予らず候の間重ねて諫状を捧ぐ、希くば御帰依の寺僧を停止せられ冝しく法華経に帰せしむべし、若し然らずんば後悔何ぞ追わん、此の趣を以て十一所に申せしめ候なり定めて御評議有る可く候か、偏に貴殿を仰ぎ奉る早く日蓮が本望を遂げしめ給え、十一箇所と申すは平の左衞門尉殿に申せしむる所なり委悉申し度く候と雖も上書分明なる間省略せしめ候、御気色を以て御披露庶幾せしむる所に候、恐々謹言。
 文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押 謹上 宿屋入道殿

【平左衛門尉頼綱への御状】

 蒙古国の牒状到来に就いて言上せしめ候ひ畢んぬ、抑先年日蓮立正安国論に之を勘へたるが如く少しも違はず普合せしむ、然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す爰を以て諌旗を公前に飛ばし争戟を私後に立つ、併ながら貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り争でか此の国滅亡せん事を歎かざらんや慎まざらんや、早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし。
 夫以れば一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理・諸天善神の威食なり之を信受するに於ては何ぞ七難来たり三災興らんや、剰え此の事を申す日蓮をば流罪せらる争でか日月星宿罰を加えへざらんや、聖徳太子は守屋の悪を倒して仏法を興し秀郷は将門を挫いて名を後代に留む、然らば法華経の強敵為る御帰依の寺僧を退治して宜く善神の擁護を蒙るべき者なり、御式目を見るに非拠を制止すること分明なり、争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん豈御起請の文を破るに非ずや、此の趣を以て方方へ愚状を進らす、所謂鎌倉殿・宿屋入道殿・建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺・多宝寺・浄光明寺・弥源太殿並びに此の状合せ十一箇所なり、各各御評議有つて速かに御報に預るべく候、若し爾らば卞和の璞磨いて玉と成り法王髻中の明珠此の時に顕れんのみ、全く身の為に之を申さず、神の為君の為国の為一切衆生の為に言上せしむるの処なり件の如し、恐々謹言。
 文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押 平左衛門尉殿

【北条弥源太への御状】

 去ぬる月御来臨急ぎ急ぎ御帰宅本意無く存ぜしめ候い畢んぬ、抑蒙古国の牒状到来の事・上一人より下万民に至るまで驚動極り無し然りと雖も何の故なること人未だ之れを知らず、日蓮兼ねて存知せしむるの間既に一論を造つて之を進覧せり徴先達つて顕れ則ち災必ず後に来る、去ぬる正嘉元年丁巳八月廿三日戌亥の刻の大地震是併ながら此の瑞に非ずや、法華経に云く如是相と天台大師云く「蜘蛛下りて喜事来りかん鵲鳴いて行人来る」と、易に云く吉凶動に於て生ずと此等の本文豈替るべけんや、所詮諸宗の帰依を止めて一乗妙経を信受せしむべきの由勘文を捧げ候、日本亡国の根源は浄土・真言・禅宗・律宗の邪法悪法より起れり諸宗を召し合せ諸経勝劣を分別せしめ給え、殊に貴殿は相模の守殿の同姓なり根本滅するに於ては枝葉豈栄えんや、早く蒙古国を調伏し国土を安穏ならしめ給え、法華を謗ずる者は三世諸仏の大怨敵なり、天照太神・八幡大菩薩等・此の国を放ち給う故・大蒙古国より牒状来るか、自今已後各各生取と成り他国の奴と成る可し、此の趣き方方へ之れを驚かし愚状を進ぜしめ候なり、恐恐謹言。
 文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押 謹上 北条弥源太殿

【建長寺道隆への御状】

 夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の羅漢の如し、然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽ち三徳の釈迦如来を抛つて、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ、此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難頻りに起り剰え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり、然るに去ぬる正月十八日牒状到来すと日蓮が勘えたる所に少しも違わず普合せしむ、諸寺諸山の祈祷威力滅する故か将又悪法の故なるか鎌倉中の上下万人・道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ良観聖人をば羅漢の如く之れを尊む、其の外寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等は「我慢の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂う」の増上慢の大悪人なり、何ぞ蒙古国の大兵を調伏せしむ可けんや、剰え日本国中の上下万人悉く生取と成る可く今世には国を亡し後世には必ず無間に堕せん、日蓮が申す事を御用い無くんば後悔之れ有る可し此の趣鎌倉殿・宿屋入道殿・平の左衛門の尉殿等へ之を進状せしめ候、一処に寄り集りて御評議有る可く候、敢て日蓮が私曲の義に非ず只経論の文に任す処なり、具には紙面に載せ難し併ながら対決の時を期す、書は言を尽さず言は心を尽さず、恐恐謹言。
 文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押 進上 建長寺道隆聖人侍者御中

【極楽寺良観への御状】

 西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賤する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し、此の趣き鎌倉殿を始め奉り建長寺等其の外へ披露せしめ候、所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず、即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん、蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か、日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り「於一切衆生中亦為第一」とは是なり、文言多端理を尽す能わず併ながら省略せしめ候、恐恐謹言。
 文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押 謹上 極楽寺長老良観聖人御所

【大仏殿別当への御状】

 去る正月十八日西戎大蒙古国より牒状到来し候い畢んぬ、其の状に云く大蒙古国皇帝・日本国王に書を上る大道の行わるる其の義邈たり信を構え睦を修す其の理何ぞ異ならん乃至至元三年丙寅正月日と、右此の状の如くんば返牒に依つて日本国を襲う可きの由分明なり、日蓮兼ねて勘え申せし立正安国論に少しも相違せず急かに退治を加え給え、然れば日蓮を放て之を叶う可からず、早く我慢を倒して日蓮に帰すべし、今生空しく過ぎなば後悔何ぞ追わん委しく之を記すこと能わず、此の趣方方へ申せしめ候、一処に聚集して御調伏有る可く候か。
 文永五年十月十一日 日蓮 花押 謹上 大仏殿別当御房

【寿福寺への御状】

 風聞の如くんば蒙古国の簡牒・去る正月十八日慥に到来候い畢んぬ、然れば先年日蓮が勘えし書の立正安国論の如く普合せしむ、恐くは日蓮は未萠を知る者なるか、之を以て之を按ずるに念仏・真言・禅・律等の悪法・一天に充満して上下の師と為るの故に此の如き他国侵逼の難起れるなり、法華不信の失に依つて皆一同に後生は無間地獄に堕す可し早く邪見を翻し達磨の法を捨てて一乗正法に帰せしむ可し、然る間方方へ披露せしめ候の処なり、早早一処に集りて御評議有る可く候、委くは対決の時を期す、恐恐謹言。
 文永五年十月十一日 日蓮 花押 謹上 寿福寺侍司御中

【浄光明寺への御状】

 大蒙古国の皇帝・日本国を奪う可きの由・牒状を渡す、此の事先年立正安国論に勘え申せし如く少しも相違せしめず内内日本第一の勧賞に行わる可きかと存ぜしめ候の処剰え御称歎に預らず候、是れ併ながら鎌倉中著癙の類・律宗・禅宗等が「向国王大臣誹謗説我悪」の故なり、早く二百五十戒を抛つて日蓮に帰して成仏を期す可し、若し然らずんば堕在無間の根源ならん、此の趣き方方へ披露せしめ候い畢んぬ、早く一処に集りて対決を遂げしめ給え日蓮・庶幾せしむる処なり、敢て諸宗を蔑如するに非ざるのみ、法華の大王戒に対して小乗もんみょう戒・豈相対に及ばんや、笑う可し笑う可し。
 文永五年十月十一日 日蓮 花押 謹上 浄光明寺侍者御中

【多宝寺への御状】

 日蓮・故最明寺殿に奉りたるの書・立正安国論御披見候か未萠を知つて之を勘え申す処なり、既に去る正月蒙古国の簡牒到来す何ぞ驚かざらんや、此の事不審千万なり縦い日蓮は悪しと雖も勘うる所の相当るに於ては何ぞ用いざらんや、早く一所に集りて御評議有る可し、若し日蓮が申す事を御用い無くんば今世には国を亡し後世は必ず無間大城に堕す可し、此の旨方方へ之を申せしめしなり敢て日蓮が私曲に非ず委しく御報に預る可く候、言は心を尽さず書は言を尽さず併ながら省略せしめ候、恐恐謹言。
 文永五年十月十一日 日蓮 花押 謹上 多宝寺侍司御中

【長楽寺への御状】

 蒙古国・調伏の事に就いて方方へ披露せしめ候い畢んぬ、既に日蓮・立正安国論に勘えたるが如く普合せしむ、早く邪法邪教を捨て実法実教に帰す可し、若し御用い無くんば今生には国を亡し身を失い後生には必ず那落に堕す可し、速やかに一処に集りて談合を遂げ評議せしめ給え日蓮庶幾せしむる所なり、御報に依って其の旨を存ず可く候の処なり敢て諸宗を蔑如するに非ず但此の国の安泰を存ずる計りなり、恐々謹言。
 文永五年十月十一日 日蓮 花押 謹上 長楽寺侍司御中

【弟子檀那中への御状】

 大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え、鎌倉殿・宿屋入道・平の左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺已上十一箇所仍つて十一通の状を書して諌訴せしめ候い畢んぬ、定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給え、恐恐謹言。
 文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押 日蓮弟子檀那中


 『十一通御書』の【北条時宗への御状】には「彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡ぼし・桀紂は竜比を失ひて国位を喪ぼす」と【平左衛門尉頼綱への御状】には「卞和の璞磨いて玉と成り」と、国主諫暁のために『貞観政要』の引用が提示され、「法王髻中の明珠此の時に顕れんのみ」と法華経安楽行品第十四で説かれている「王解髻中 明珠賜之」「如王解髻 明珠与之」の引用も提示されている。つまり、日蓮大聖人が故事を例示しながら言葉を尽くして教えられ、日蓮大聖人こそが日本国を救うことのできる者であるとの確信が読み取れるのである。

 ちなみに、日蓮大聖人が『十一通御書』を提出されてから四年後の文永九年(1272年)二月に、北条一門の内乱が起こり、四条金吾の主君である江馬(名越)光時の弟である鎌倉の名越流北条氏の名越時章・教時と京都の六波羅探題南方の北条時輔が謀反を企てたとして北条時宗による討伐が行われた二月騒動が勃発し「自界叛逆難」が現実に起こったのである。

 なお、今回紹介した書林の平楽寺村上勘兵衛であるが、創業者の村上浄徳は丹波国出身の武士で、京師に出て書肆を開き医書や仏書を出版し、代々の当主は「村上勘兵衛」を名乗った。第三代の村上宗信までは浄土宗の宗書を扱っていたが、宗信の代になって法華宗に転向して、日蓮宗の宗書を出版するようになって、書林平楽寺村上勘兵衛は、寛保元年(1741年)ごろから「法華宗門書堂」と称することになる。明治時代には廃業し大正時代に井上治作に店を譲渡して「平楽寺書店」(東洞院三条上ル)の社名で日蓮宗の宗書出版を中心に刊行する出版社として再出発した。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)十一月作成