『日蓮大聖人御書五大部』(にちれんだいしょうにんごしょごだいぶ)

    


タイトル:『日蓮大聖人御書五大部』(にちれんだいしょうにんごしょごだいぶ)

著者:日蓮大聖人

出版書写事項:寶暦修補本

形態:全八冊 和装大本(B5版)

書目:『立正安國論』『開目鈔』『撰時鈔』『報恩鈔』『観心本尊鈔』

目録番号:soka-0010001



日蓮大聖人御書五大部』の解説

 『日蓮大聖人御書五大部』は、日蓮大聖人(貞応元年・1222~弘安五年・1282)の御書の中で最も重要な五編を日興上人(寛元四年・1246~元弘三年・1333)が選定され、『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』『撰時抄』『報恩抄』の五編を「五大部」と呼んだものである。また、『唱法華題目抄』『法華取要抄』『四信五品抄』『下山御消息』『本尊問答抄』を加えて「十大部」とも呼んだ。

 今回紹介する「五大部」には江戸期の寶暦修補本であることが『立正安国論』の見開きに印刷されている。江戸期の宝暦(ほうれき)時代とは、寛延(かんえん)の後で明和(めいわ)の前の和暦で、西暦では1751年から1763年までの期間を指し、この時代の天皇は桃園天皇と後桜町天皇で、江戸幕府では第九代将軍の徳川家重と第十代将軍の徳川家治の時代にあたる。誤字脱字が多い印刷であるが、250余年前に活字化された貴重な書籍でもある。

 そして、今回紹介する「五大部」に収録されている『立正安國論』と『観心本尊鈔』の版心は、富木常忍こと常修院日常が開基の中山法華経寺に現存し国宝に指定されている正筆である。また、『撰時鈔』の版心は六老僧の日昭が開創の玉澤妙法華寺に現存し重要文化財に指定されている正筆である。なお、『開目鈔』と『報恩鈔』の正筆は明治八年(1875年)に身延山久遠寺の火災で焼失しているので、今回紹介する書籍は現存していた宝暦時代に筆写された正筆に近い状態で読むことができる貴重な書籍でもある。

 なお、日興門流の日寛上人(寛文五年・1665~享保十一年・1726)は、日蓮大聖人が著された重要御書について、その真意を明らかにするため、科段を設け註釈をされ、『立正安国論愚記』『開目抄文段』『観心本尊抄文段』『撰時抄愚記』『報恩抄文段』等を著述された。

 「五大部」の背景とその概説を記載して、日蓮大聖人の真意を掲載しておく。(年代順で記載)

【立正安国論】(りっしょうあんこくろん)

 文応元年(1260年)七月十六日、日蓮大聖人が三十九歳の御時、宿屋入道光則(生没年不詳)を通じて当時の鎌倉幕府の最高権力者であり最明寺入道とも呼ばれた第五代の執権であった北条時頼(安貞元年・1227~弘長三年・1263)に提出された諫暁の書である。日蓮大聖人御述作の中でも最重要の書で、日興上人が選定された十大部の第一に挙げられた書でもある。『立正安国論』とは「正法を立て国を安んずる書」という意味になり、全体が「客」と「主人」の問答形式で述べられている。「客」とは、宗教の是非や高低深浅も知らずに、誤った宗教に執着し、迷妄に覆われた一切衆生であり、別しては北条時頼のことを指している。「主人」とは、仏法に無知な客に対して法華の正法を説き示す人で、日蓮大聖人を表している。

 その内容は、まず最初に、あいついで国内に起こる天災・飢饉・疫病の原因は、世の人々皆が正法を捨てて悪法を信じていることにより、国土を守護すべき善神が去って、悪鬼・魔神が乱入したためであるとされ、金光明経・大集経・仁王経・薬師経の四経の文を引かれて、正法を信じないで謗法を犯すことによって三災七難が起こると述べられている。そして、社会を覆い人々の生命を蝕んでいる一凶は法然(長承二年・1133~建暦二年・1212)の念仏であると指摘され、この一凶を断って布施を止め、正法に帰依するならば、一切の災難が消えて平和楽土が実現するが、もし正法に帰依しなければ、七難の中でまだ起こっていない「他国侵逼難」と「自界叛逆難」の二難が競い起こるであろうと予言され、速やかに実乗の一善(妙法)に帰依するよう強く訴えて結ばれている。

 当時は京都を中心に日本中の人々が熱狂的に法然(長承二年・1133~建暦二年・1212)の説いた念仏を信仰していた時代であった。日蓮大聖人はこの諌暁が重大な迫害をもたらすことを覚悟されていたが、案の定、その諌言は直ちに念仏者の知るところとなり、彼らは極楽寺殿とも呼ばれた北条重時(建久九年・1198~弘長元年・1261)ら念仏を信仰していた権力者を後ろ盾に、安国論上呈から約四十日後の文応元年(1260年)八月二十七日の深夜、松葉ケ谷に草庵を掬ばれていた大聖人を襲い、大聖人を暗殺しようとしたのである。この折幸いにも、大聖人は奇跡的に法難を逃れ、下総の壇越である富木常忍(建保四年・1216~永仁七年・1299)の元に身を寄せられた。そして、念仏者の訴えによって鎌倉幕府は、翌年の弘長元年(1261年)に鎌倉へ戻られた大聖人を捕え、五月十二日に伊豆の伊東へ流罪したのである。

 安国論の上呈から九年後の文永五年(1268年)、日本国にとって重大事件であるモンゴル帝国(蒙古)第五代皇帝のフビライ汗(クビライ・カーン)から牒状が到来したのである。フビライ汗は南宋を滅ぼして中国本土を領土に組み入れた元の世祖である。そして、属国となった高麗の潘阜(はんふ)が蒙古の使者として牒状を携え九州の太宰府へ上陸し、同年閏正月十八日、牒状は鎌倉幕府に届けられ朝廷に送られたが、蒙古への返書は作成されなかった。その牒状の実体は、「表向きは友好を求めるものであったが、内実は蒙古に服して属国となり貢ぎ物をせよ」と日本に迫ったものであった。驚いた幕府は第七代執権であった北条政村(元久二年・1205~文永十年・1273)が連署に退き、若輩の北条時宗(建長三年・1251~弘安七年・1284)が第八代執権となって蒙古の襲来に備えた。

 このように、大聖人の予言が見事に的中したという現実を前にしてもなお、幕府は大聖人の諌言を用いず、教えを請おうともしないばかりか、国中の寺社に対して蒙古調伏の祈禱を命じたのであった。大聖人は、文永五年四月五日、幕府の中枢に関係があったと思われる法鑒房(ほうかんぼう)へ『安国論御勘由来』を送られた。しかし、これに対する反応もなく、同年八月二十一日、かつて北条時頼に安国論を提出した折に、仲介の労をとった宿屋入道光則へ再び書状を送り、安国論の予言が的中したことを指摘し、北条時宗と対面する旨を申し入れられた。(『十一通御書』参照)

 その後、文永九年(1272年)二月に北条一門の内乱が起こり、鎌倉の名越流北条氏の名越時章・教時と京都の六波羅探題南方の北条時輔が謀反を企てたとして北条時宗による討伐が行われた二月騒動が勃発し「自界叛逆難」が現実に起こったのである。

 日蓮大聖人が『立正安国論』で「國」の異体字を使用されたことは「伏敵編」でも解説したが、平安時代初期には既に漢字「国」には三つの書き方が常用され、教養人の間では至極あたりまえのことで、くにがまえの中に王と書く「くに」、くにがまえの中に戈という武器を入れた難しい字の「くに」という言葉とともに、もう一つ、くにがまえの中に民という字を入れた「くに」という字を使い分けていたのである。

 また、正筆の『立正安国論』においては、「くにがまえの中に玉」と「くにがまえの中に王」を使い分けられ、「くにがまえの中に民」という字を入れた「くに」を多用され、『立正安国論』を北条時頼に提出した鎌倉時代には、「民」が忘れ去られ「國・国」の意識で政治が行われたのであろう。ゆえに、日蓮大聖人は「くにがまえの中に民」の字を入れた「くに」を五十六回も多用され、親政への喚起を促されたのではないか。『立正安国論』を読む度に「くにがまえの中に民」の字を入れた「くに」を深く思考する樹冠人である。

 なお、早稲田大学の古典籍総合データベースには、今回紹介した『立正安國論』と同版の書籍で坪内逍遥(つぼうちしょうよう・安政六年・1859~昭和十年・1935)旧蔵の古活字版が収蔵されている。

【開目抄】(かいもくしょう)

 文永九年(1272年)二月、日蓮大聖人が五十一歳の御時、佐渡御配流中に塚原で御述作され、門下一同に与えられた書である。『開目抄』は上下二巻で構成され、『観心本尊抄』が「法本尊開顕の書」であるのに対して、『開目抄』は「人本尊開顕の書」であり、教行証に配すると一代の諸経の勝劣浅深を判じ五段の教相を説いているので教の重に配される。

 日蓮大聖人が文永八年九月十二日に竜の口の法難、ついで同十月に佐渡配流になると、弟子檀那に対しても迫害が襲いかかったために、ある者は耐えず、ある者は諸天の加護なきを疑い、ある者は大聖人が法難に遭われたことに不信を起こすなど、退転する者が続出した。そのため大聖人は門下の疑いを解き、かつ末法の御本仏であることを宣言なさるため本抄を認められたのである。文永八年十一月から起草され、翌文永九年二月に完結されて、有縁の門下の中でも特に四条金吾(寛喜元年・1229~永仁四年・1296)に与えられた。

 『開目抄』は、末法下種の人本尊をあらわすために、初めに「主師親の三徳」を尊敬すべきを示し、次に儒外の三徳を挙げ、次に内典の三徳を釈して、一代聖教の浅深を判じて熟脱の三徳を説明されている。次に大聖人こそ真実の法華経の行者であることを明かして下種の三徳をあらわし、最後に「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」と本抄の元意を結ばれ、日蓮大聖人御自身が寿量文底の主師親三徳を具えた末法の御本仏であることを明らかにされている。また、本抄で一代諸経の浅深を判ずるのに五段の教相、すなわち「五重相対」を説かれている。

 なお、日寛上人の『開目抄文段』には『開目抄』と題する旨は盲目を開く義にあるとし、真実の三徳具備の久遠元初の本仏を知らない一切衆生の盲目を開かせる相を明かす故に『開目抄』と名づけるとされている。そして、「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」と結しているように、日蓮大聖人御自身が寿量文底下種の主師親三徳をそなえた末法の本仏であることを明らかにした論文であると説明され、また、『開目抄』の「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり(中略)但我が天台智者のみこれをいだけり」の一文を寿量文底深秘の真文として『三重秘伝抄』を著わし、この一文を三段に分け、義に十門を開いて大聖人の三重秘伝の奥義を詳説している。

【観心本尊抄】(かんじんのほんぞんしょう)

 『観心本尊抄』は、「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」(如来の滅後五の五百歳に始む観心の本尊抄)が正しい名称である。『開目抄』が「人本尊開顕の書」であるのに対して、『観心本尊抄』は「法本尊開顕の書」である。文永十年(1273年)四月二十五日、日蓮大聖人が五十二歳の御時、佐渡流罪中に、一谷で御述作になり、下総国(現在の千葉県)葛飾郡八幡荘の富木常忍(建保四年・1216~永仁七年・1299)に与えられた書で、教行証に配すると『観心本尊抄』は受持即観心の義を明らかにしているので行の重に配される。

 『観心本尊抄』の内容は、大きく四段に分けられている。第一段で一念三千の出処として、初めに『摩訶止観』巻五上の一念三千の出処を正しく示され、次に一念三千が情非情にわたることを明かされている。第二段では観心の本尊の観心の義について述べられ、観心とは衆生の観心であり、末法においては本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることに尽きるとして、「受持即観心」の義を明かされている。第三段では末法に建立される本尊を明かされ、五重三段の教相を論じ、釈尊の教相・寿量文上脱益の本尊を破って、寿量文底下種の本尊を示され、末法の観心の本尊を結せられている。

 そして、最後の第四段で久遠元初自受用身である御本仏の日蓮大聖人が大慈悲を起こされ、南無妙法蓮華経の大御本尊を御図顕されて、末法の一切衆生に信受せしめることを明かされている。このように『観心本尊抄』には「五重三段」「受持即観心」「末法下種の法本尊の開顕」など、日蓮大聖人御建立の三大秘法の御本尊が末法の独一本門であることが詳しく説かれているのである。

 なお、この書籍の最終頁には「以正中山御正筆第一轉之本謹寫之云云」とある。

【撰時抄】(せんじしょう)

 建治元年(1275年)、日蓮大聖人が五十四歳の御時、身延においてお認めになり、駿河国(現在の静岡県)西山の由井某に与えられた書である。由井氏は芝川と富士川に合流する河合に住んでいた日興上人の外戚にあたる。佐渡から鎌倉に帰られた日蓮大聖人は、文永十一年(1274年)五月に身延に入られ、翌年の建治元年(1275年)に本抄をお認めになった。

 『撰時抄』とは「時を撰ぶ抄」との意味となり、まず、「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」と説き起こされ、正法・像法・末法の三時にわたり、インド・中国・日本の三国にわたって、それぞれの時代、それぞれの国々における機感相応の正法を明かしている。すなわち、インドにおいては正法の初めの五百年に、迦葉・阿難等が小乗教を流布し、次いで正法の後半の五百年には、竜樹・天親等が出現して権大乗教を弘めた。次いで仏滅後千十五年に、仏教は中国へ伝来し、像法の中期には、天台大師が中国において法華経の迹門を広宣流布し、同じく像法の終わりには伝教大師が日本において比叡山に円頓の戒壇を建立した。

 そして、仏の予言によれば、仏滅後二千年を過ぎると末法となり、白法隠没の時代となる。この時に、上行菩薩が世に出現して三大秘法を広宣流布し、末法の一切衆生を救うことを示され、大聖人の御出現は、仏滅後二千二百余年にあたり、当時の世相は仏の予言通りであることを述べられている。そして特に、真言の邪法を徹底的に破折されながら、末法に寿量品文底秘沈の三大秘法が広宣流布することを明かされている。

 なお、日寛上人の『撰時抄文段』には、『撰時抄』の本意は末法の時を撰取することにあり、これには「末法に必ず文底秘沈の大法が広宣流布すること。」と「日蓮大聖人をもって下種の本尊となすべきこと。」の二つの意味があるとされている。

【報恩抄】(ほうおんしょう)

 建治二年(1276年)七月二十一日、日蓮大聖人が五十五歳の御時、身延において御述作になり、故郷である安房国(現在の千葉県)清澄寺の道善房(建治二年・1276年三月十六日死去)の供養のため浄顕房・義浄房のもとへ送られた書である。日蓮大聖人が清澄寺で十二歳の時より修学に励まれた時の師匠が道善房で、浄顕房・義浄房の二人は兄弟子であった。民部日向(建長五年・1253~正和三年・1314)が使者として本抄を持って清澄寺に行き、蒿が森の頂きと故道善房の墓前で本抄を拝読した。

 その内容は、最初に通じて四恩を報じ、別して故師道善房の恩を報ずべきことを明かされ、そのためには一代聖教を学ばなくてはならないとされている。しかし、一代聖教を学ぶ明鏡となるべき十宗が、それぞれ自宗の正当性を主張しているために、いずれが仏の本意か分からない。そこでインド、中国、日本の各宗の教義を挙げて破折され、一代聖教の中では法華経が最勝であり、法華経の肝心は題目にあることを示され、さらに末法の法即人の本尊と戒壇そして題目の三大秘法を整理して明かされている。

 特に、『報恩抄』においては、真言宗(密教)を破折され、天台宗座主でありながら真言に転落した慈覚(円仁)、智証(円珍)については厳しく破折されている。そして最後に、三大秘法を流布し、一切衆生を救済することが師の大恩を報ずる道であることを明かされている。なお、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」の御文は日蓮大聖人の三徳を明かされたものである。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)十一月作成