『興風集』(こうふうしゅう)


タイトル:興風集(こうふうしゅう)
著者:秋湖久坂通武(久坂玄瑞)
出版書写事項:明治元年(1868年)発行
松下村塾蔵版
京都大学貴重資料収蔵本と同等
形態:一巻全一冊 和装中本(B6版)
目録番号:win-0060003
『興風集』の解説
秋湖久坂通武こと久坂玄瑞(天保十一年・1840~元治元年・1864)は、長州藩の藩医の三男坊として生まれた。松下村塾では高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と呼ばれ、「松門四天王」の一人である。
また、吉田松陰からは「識の高杉、才の久坂」と期待された。そして、彼は松陰の妹を妻とした。真木和泉や木島又兵衛の進撃論に敗れ、「蛤御門の変」(禁門の変)に参軍することとなり、明治維新を見ることなく自刀して果てた。
久坂玄瑞と同じく、江戸幕末には「志士」と呼ばれる憂国の庶民たちが存在した。彼らは、真剣に日本国の未来に危機を感じ、国の存続自体を憂えて行動して殉難した人々が多い。今回紹介する「興風集」には「安政の大獄」や「桜田門外の変」で獄死・斬首など不遇の最後を遂げた志士たちの痛恨の詩文が収蔵されている。久坂玄瑞が集めた詩文を纏めた「興風集」は、殉難志士の漢詩文集の先駆けとなった。
私こと樹冠人の所蔵している書籍は裏書が破損しているが、京都大学の「貴重資料 谷村文庫」収蔵の「興風集」の裏書には、「明治元戊辰年十月新鐫 弘通書肆 大坂心斎橋唐物町 河内屋吉兵衛 京都三條通寺町西 吉野屋甚助 同四條通御旅町 田中屋治兵衛」とあり、同等の書籍である。
まず、この書籍の冒頭には久坂玄瑞の解説と共に、藤田東湖・山岡八十郎・金子重輔・信田仁十郎・蓮田藤蔵・日下部伊三次・梅田雲濱・頼三樹三郎・吉田松陰・月性上人・黙霖上人の「追懐古人詩十首」が掲載されている。
藤田東湖(文化三年・1806~安政二年・1855)は、水戸藩の政治家で藩政改革を断行した水戸学の大家である。安政の大地震の折、落下した鴨居から母親を脱出させるために、自らは下敷きとなり圧死した記念碑である「藤田東湖護母致命処」が現存することは有名である。
山岡八十郎(文化十三年・1816~嘉永七年・1854)は、備後福山藩の藩士で大目付を務めた憂国の志士である。日米和親条約締結を憂い、老中で藩主の阿部正弘に意見書を提出したが受け入れられず、切腹して果てた。
金子重輔(天保二年・1831~安政二年・1855)は、長州藩の雑役で、日米和親条約が締結された後に吉田松陰と共に「米艦乗込事件」で自首して、長州の岩倉獄に送還され病没した。
水戸藩の郷士である信田仁十郎と蓮田藤蔵が堀江克之助に与えた漢詩が掲載されているが、彼らは日米修好条約の草案折衝をしていたタウンゼント・ハリスを襲撃するため水戸を出奔したが、目的を果たすことは出来ず自訴して処刑された。江戸幕府はこの事件を利用して外国公使の江戸居住を目論むが失敗した。この事件を契機に外国人要撃事件が頻発することとなった。
日下部伊三次(文化十一年・1814~安政五年・1858)は、水戸藩と薩摩藩に仕え京都で活動した攘夷派の志士である。水戸藩への密勅を江戸の水戸藩邸へ届けたが、これが安政の大獄を誘発した事件となる。彼は伝馬町の獄舎で病没した。
梅田雲濱(文化十二年・1815~安政六年・1859)は、小浜藩の儒学者で尊皇攘夷の先鋒となり、条約締結反対と外国人排斥を訴えて幕府政治を批判したため、安政の大獄の犠牲となり獄中で病没した。
頼三樹三郎(文政八年・1825~安政六年・1859)は、「頼山陽 関連目録」で紹介した頼山陽の三男で儒学者である。勤王の志士として尊皇攘夷運動に没頭し、江戸幕府からは梅田雲濱などと共に危険人物のレッテルを貼られ、安政の大獄で福山藩に幽閉されるが、幕府は強行に江戸へ移送して斬首した。
吉田松陰(文政十三年・1830~安政六年・1859)は、「松下村塾 関連目録」で紹介したので省略する。
月性上人は、尊王攘夷運動を推進した周防の妙円寺の僧で、久坂玄瑞に対して吉田松陰への師事を薦めた張本人である。私塾「清狂草堂」を経営し諸国遊説して海防を説いた。「男児立志の歌」でも有名で、著作に「清狂詩鈔」がある。
黙霖上人は、老中阿部正弘に勤王討幕論の論稿を送りつけたことで有名である。吉田松陰の「幽囚録」に感動して獄中の松陰と文通を続けた。そして、松陰の思想転換を促した張本人でもある。
そして、「松陰二十一回猛士」「頼三樹」「梅田源治郎」「日下部伊三治」「僧月性」「松陰二十一回猛士自賛」「藤森天山肖像自賛」「堀織部正與閣老安藤侯書」などに続いて、「齋藤監物」「高橋子柚」「堀織部正」「村田四郎左衛門」「橋本左内」「大橋順蔵」「關錦堆」そして「獄捥記」の詩文を収録した。
最後に、水戸藩浪士の蓮田市五郎の遺書が掲載されている。
市五郎は「幼くして父を亡くし、貧乏な家庭の中で、僅かな食を減じて読書勉学した」逸材であった。彼は、「安政の大獄」を推進した張本人である大老の井伊直弼を襲撃した事件で有名な「桜田門外の変」の実行犯の一人である。当時において、御三家の一つである体制派の水戸藩の浪士たちが要職の大老を襲撃したことは、勤王の志士たちに衝撃を与えた。そして、彼は老中の脇坂に自訴し、細川家に幽囚されることとなる。獄中で認めて母姉に遺した遺書は筆写されて志士たちの間に流布し、「之を読んで泣かぬものはない」と云われた遺書である。この遺書の全文を久坂玄瑞は「興風集」に収録した。
【参考】京都大学蔵書検索 京都大学 KuLine
所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
平成二十三年(2011年)十月作成