『幽囚録』(ゆうしゅうろく)

    


タイトル:幽囚録(ゆうしゅうろく)

著者:松陰二十一回猛士(吉田松陰)

出版書写事項:慶應四年(1868年)発行
       土州御蔵版

形態:上下巻全二冊 和装中本(B6版)

目録番号:win-0020001



幽囚録』の解説

 吉田松陰(文政十三年・1830~安政六年・1859)は、短命ではあったが、波乱万丈の人生を送った幕末の志士であった。松下村塾とともに松陰の号はあまりにも有名であるが、松陰が叔父の玉木文之進が開いた松下村塾の卒業生で後に塾長となったことは、意外にも正確に伝わっていない。松下村塾を説明する場合は、「玉木文之進が創設した塾を、松陰が幽囚の身として再興した塾が松下村塾である」とした方が正確である。

 松陰は兵法家・思想家・教育家そして詩人と多才な側面を持っていた。兵法家としては、長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の跡継ぎとしての使命を痛切に心していたであろうし、思想家としては、教育実践に有益な思想を形成していたと思われる。とりわけ、教育家としては、投獄の人生を過ごした松陰にとって「松陰が存在している場所が松下村塾である」との認識が強く、長州藩に存在する松下村塾だけが松下村塾であるとは認識していない。

 この点が、松陰研究において一番大切な視点であると思う。その意味も込めて、「幽囚」と「松下村塾」は切っても切れない関係であり、「野山獄文稿」に収められた「幽囚録」を皮切りに松下村塾に関わった人物の著作をまとめることにした。

 「幽囚録」は安政元年(1854年)に江戸の獄舎から長州藩の野山獄に移送された際、松陰が金子重輔とともに海外渡航を企て失敗した下田米艦密航のことを述べている。この本の内容としては、当時の情勢を踏まえて、行動の動機とその思想的根拠を漢文で述べている。

 この「幽囚録」は、兵学の師匠である佐久間象山が閲覧して添削批評を加えた書でもある。まさしく、思想家としての教育実践報告書であり、師弟共戦の結果報告でもある。また、「余を罪するものも幽囚録、余を称するものも幽囚録なり」と松陰自ら言ったと伝えられている。

 また、「この書は維新前出版せられたるものありしか誤脱甚だ多きを以て」と、吉田松陰の妹・千代の息子で吉田家第十一代当主となった吉田庫三(よしだくらぞう)が「松陰先生遺著」の中で、編者としてコメントを遺している。まさしく、今回提示した慶応四年土州御蔵版がそれに該当すると思われる。

 なぜならば、師弟共戦の重要なポイントである「象山翁評」が欠落し、跋文の最後の「丙辰十二月五日」なども欠落しているからである。ただし、この書は慶応四年の幕末期の出版であるが、「幕末の志士たちの生き残り(または後学)が持ち歩いた本はこの形状の書籍ではないかと思われる点」と「松陰の精神を充分吸収できる内容が提示されている点」において、貴重な書籍であることには間違いないであろう。

 「幽囚録」では、まず、勢いが盛んであった皇朝の歴史に触れ、蒙古襲来など「古来三度の変動」を提示し、「外国人の前に膝を屈し、首をたれて、そのなすがままに任せている」現状を歎き、国勢の衰えを危惧している。

 そして、「下田米艦密航については、机上の空論に走り、口先だけで論議する者たちと組することはできず、黙って坐視していることはできないので、やむにやまれぬことだった」と吐露している。そして、「日本書紀」の敏達天皇の件(くだり)を提示しながら外患の問題打開の方策を述べている。

 問題打開の方策についての所論については、師匠である佐久間象山の建議を紹介している。たとえば、海防については、下田開港決定を聞くや、「ことに人びとは外国船が迅速で、神奈川にいても下田に退いても、江戸に対する危険性は同じだということを知らなすぎる。だから、横浜をすぐに開港場にするにこしたことはないのである。」と象山が主張したことなどを提示している。

 また、「京都の近くで地の利を得ているところは伏見に及ぶところはない。だから、ここに大きな城をつくって幕府をおき、皇都としての京都を守るべきである。」など、松陰の立案は地勢を論じながら、兵学校の設置、艦船の建造、参勤交代の艦船利用、蝦夷地の開拓と幅広い提案を展開している。

 ここで見逃してはならない主張もある。それは、明治維新からの「富国強兵」路線の下敷きが提示されている点である。松陰先生の主張そのものを提示しておきますので、現代においてどのように評価するかは皆様がお考えください。

 「太陽は昇っているのでなければ西に傾いているのであり、月は満ちているのでなければ欠けつつあるのである。同様に国も隆盛でなければ衰えているのだ。だから、よく国を保持するというのは、ただたんにそのもてるところのものを失わないというのみではなく、その欠けるところを増すことなのである。いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャッカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様貢納させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。しかる後に、民を愛し士を養い、辺境の守りを十分固めれば、よく国を保持するといいうるのである。そうでなくて、諸外国競合の中に坐し、なんらなすところなければ、やがていくばくもなく国は衰亡していくだろう。」(中公クラッシック「吉田松陰」より抜粋)

 まさしく、明治時代の建国から昭和の終戦まで、松下村塾門下生の生き残り組(または後学)が師匠の指導を忠実に実践した(松陰の真意をどこまで体得していたか?)悲劇の歴史を、現代人は真摯に学ぶべきである。

 なお、「野山獄文稿」についての説明を追記しておく。

 安政元年(1854年)に江戸伝馬町の獄から移送され、萩の野山獄に入牢の身となった松陰は、入獄中に別冊とした「幽囚録」を含めて「士規七則」「桂小五郎に与うる書」など五十数篇を「野山獄文稿」としてまとめた。これは、松陰が二十五歳から二十六歳までの文章を松陰自ら編集したものである。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)十月作成