『倭漢三才圖會』(わかんさんさいずえ)

    


タイトル:『倭漢三才圖會』(わかんさんさいずえ)

編纂者:寺島良安

出版書写事項:明治三十九年十一月十七日(1906年)印刷
       明治三十九年十一月廿一日(1906年)発行

形態:百五巻全一冊(B6版)

発行者:合資会社 吉川弘文館
    代表者 吉川半七

印刷者:武木信賢

発行所:合資会社 吉川弘文館

目録番号:win-0090002



倭漢三才圖會』の解説

 『倭漢三才圖會』(わかんさんさいずえ)は、江戸時代中期に活躍した寺島尚順こと寺島良安(てらしまりょうあん・承応三年・1654~没年不詳)が江戸時代の正徳二年(1712年)に編纂を完了した類書と呼ばれた百科事典である。

 また、『倭漢三才圖會』は明国の王圻(おうき・1529年~1612年)により編纂された全百六巻の『三才圖會』を模範とした絵入りの文学的百科事典で、三十有余年の歳月をかけて編纂され、日本本草学の集大成ともいえる薬種を掲載して、日本初めての事典として広く活用された。なお、現在の日本においては本草学は「博物学」と表現されて研究されている。

 杏林堂とも号した寺島良安は、大阪城に勤士していた漢方医である。秋田能代の船問屋尾張屋の息子として生まれ、のちに大坂に移って同郷の能代出身の伊藤良立に学んだ。医学を和気法眼仲安に学び、大坂城の御城入医師となり、法橋に叙任された。良安の思想は明代に流行した「易医論」の影響を受けて、「天」「地」「人」の三才に広く通じて初めて真の医家であるという考えに立って、三十余年間も脱稿推敲を重ねた。なお、本類書のほかにも『三才諸神本紀』『済世宝』『弘法大師略伝』『湯液痘疹良方』などの著作が存在している。

 今回紹介する書籍は、持ち運びに便利だが活字が小さいポケットサイズの百科事典である。大坂心斎橋筋淡路町の嶝口太兵衛尉定次が雕刻した蔵版を『伏敵編』でも紹介した「吉川弘文館」が明治期に発行したものである。この書籍には、朝散大夫大學頭で林家の藤原信篤が略序を、前大医令の和気伯雄が叙を、法橋の寺島良安が自序を、正三位大蔵卿の清原宣通の後序を掲載し、凡例の後に、大目録とイロハ索引を配した。

 「吉川弘文館」は、創業者である吉川半七(天保十年・1839~明治三十五年・1902)が十九歳で主家の玉養堂(若林屋喜兵衛)から独立自営を許されて書物の仲買を始め、文久三年(1863年)には貸本屋の近江屋を継ぎ、近江屋吉川半七を名乗った。明治十年(1877年)頃より出版を兼業し、多くは「吉川半七」の個人名をもって発行所とした。明治三十七年(1904年)には二代目吉川半七が「合資会社吉川弘文館」を設立し、明治三十八年(1905年)に「国書刊行会」の編輯所を吉川弘文館倉庫の二階に置き、この年から発行した刊行会本の印刷・配本を引き受けた。太平洋戦争中の休業を経て昭和二十四年(1949年)に吉川圭三ほか三人が出資し「株式会社吉川弘文館」として再発足し現在に至っている。なお、明治時代には、『倭漢三才圖會』以外にも『本居宣長全集』『賀茂真淵全集』『大日本史』『国書刊行会本』『国史大辞典』等の有名書籍を出版している。

 「法橋」とは、法橋上人位の略で、律師の僧綱に授けられる僧位で、法印・法眼とともに制定され、後に一般の僧にも授けられるようになり、さらに仏師や絵師にも叙任されるに至った。

 良安は自序に、師匠の和気法眼仲安(伯雄)から「劉完素の言葉に、医を業としようとするならば、上は天文を知り、下は地理を知り、中は人事を知らなければならない。この三つを倶に明らかにしてのち、はじめて人の疾病について語ることができる。さもなければ目が見えなくて夜遊び、足がなくて山野を登渉しようとするようなものだとある。」と諭され、発奮して編纂を開始したことを記載した。

 また、二十歳後半から三十有余年かけて脱稿を重ねた努力家の良安であるが、「文は杜撰(ずさん)、事の目論(もくろみ)も全く不十分なため、人々からそしり笑われるにちがいない。」とも謙虚に述べている。

 本文全体は百五巻八十一冊にも及ぶ膨大なもので、所収項目は和漢古今の事象を「天」「人」「地」の三才の大部に分類し、「天」は一巻から六巻まで、「人」は七巻から五十四巻まで、「地」は五十五巻から百五巻までの各部に項目を並べて考証し、挿入図は挿絵や古地図などを添えた。各項目は漢名と和名で表記され、本文は漢文で解説されている。

 『倭漢三才圖會』についての逸話には、博物学者の南方熊楠(みなかたくまぐす・慶応三年・1867~昭和十六年・1941)が旧制中学在学中の短期間で全巻を筆写した有名な話が存在するが、私こと樹冠人も「南方熊楠記念館」で拝読した折に圧巻であったとともに、「これは必読の書である。」と決意した思い出がある。なお、熊楠は『本草綱目』『大和本草』『諸国名所図会』等も筆写している。

 「南方熊楠記念館」のホームページでは、「幼い時から驚くべき記憶力の持ち主で歩くエンサイクロペディア(百科事典)と称された反骨の世界的博物学者。19才の時に渡米、粘菌の魅力にとりつかれ、その研究に没頭、サーカス団に入ってキューバに渡るなど苦学しながら渡英。その抜群の語学カと博識で大英博物館の東洋関係文物の整理を依頼される。一方、科学雑誌「ネイチャー」に数多くの論文を発表。また、孫文と知り合い意気投合、以後親交を結ぶ。33才で帰国、紀州は田辺に居を構えると精力的に粘菌の研究に打ち込み、その採集のため熊野の山に分け入り、数々の新種を発見。一切のアカデミズムに背をむけての独創的な学問と天衣無縫で豪放轟落な言動は奇人呼ばわりされたが実はやさしい含羞の人であり、自然保護運動に命をかけて闘いぬいた巨人であった。」と紹介されている。

 熊楠は、和歌山県で生まれ、東京での学生生活を終えてイギリスの「大英博物館」で勤務した。その後、故郷に帰り博物学者・生物学者・民俗学者と呼ばれる道を歩むことになる。特に、菌類学者としての「粘菌の研究」は広く世界的にも注目され知られている。主著には『十二支考』『南方随筆』『続南方随筆』などがあり、自作の教科書『動物学』などもある。

 熊楠は18言語が理解でき「歩く百科事典」とも呼ばれ、後世には数々の逸話が伝承されている。例えば、「読むというのは写すこと、単に読んだだけでは忘れるが、写したら忘れない」を信条としていたが、「蔵書家の家で百冊を超える本を見せてもらい、家に帰って記憶から書写した」という卓抜した能力をもっていた。また、「学問は活物で書籍は糟粕だ。」の言葉も残している。

 なお、白浜町を行幸された昭和天皇は御宿所の屋上から神島を眺めて御製「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の生みし 南方熊楠を思ふ」を詠まれている。これは、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌であった。現在この歌碑は、白浜町の南方熊楠記念館のある番所山に建てられている。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十八年(2016年)七月作成