『伏敵編』(ふくてきへん)

    


タイトル:『伏敵編』(ふくてきへん)

著者:山田安栄

出版書写事項:明治廿四年十一月二日(1891年)出版
       明治廿五年一月六日(1892年) 再版印刷出版

形態:全二冊(和装B5変形版)

附録:「靖方溯源」「蒙古襲来絵詞」

版権所有:伯爵 廣橋賢光

監修:重野安繹

編纂:山田安栄

発行兼印刷者:吉川半七

印刷所:東京築地活版製造所

目録番号:nihon-0020009



伏敵編』の解説

 今回紹介する明治二十四年に出版された「伏敵編」は、江戸明治大正を生きた歴史研究家である山田安栄(嘉永五年・1852~大正十一年・1922)が編纂した蒙古襲来関係の史料集である。廣橋賢光伯爵の発意により、重野安繹監修、山田安榮編纂で上梓された。この書籍発刊は元寇記念碑建設を促す意図があり、日本において明治二十四年頃は清国との緊張関係が高まった時期でもあり、明治二十七年に勃発する日清戦争の理論武装のための書籍でもあった。そして、文応までの天下の事績を掲載した「靖方溯源(せいほうさくげん)」と竹崎季長の武勇伝を描いた「蒙古襲来絵詞」が附録されている。

 見開き20ページに亘って、醍醐天皇之宸翰熾仁親王書「敵国降伏」、伊藤博文の「前事之不忘後事之師也」、山縣有朋の「海外有截」など大物の書が掲載され、その後、従四位文学博士重埜安繹の伏敵編序と筑前渓水居士金子堅太郎の伏敵編序が掲載され、「伏敵編」と附録の「靖方溯源」には引用書目として本邦三百九十三種、外国書七十六種も引用されている。

 伊藤博文(天保十二年・1841~明治四十二年・1909)は、吉田松陰関連書籍で紹介した「松下村塾」で学び、「俊輔」と呼ばれた。この名は松陰から贈られた名前である。身分が低かった俊輔であるが幕末期には長州藩の同志たちと倒幕運動に参画し、明治維新後には「博文」と改名し薩長の藩閥政権の中で成長した。大日本帝国憲法の起草者の中心人物として活躍し、立憲政友会を結成して初代総裁となり、内閣総理大臣としては初代・第五代・第七代・第十代の四期を務めた。

 山縣有朋(天保九年・1838~大正十一年・1922)は、「風霜」で紹介した高杉晋作が創設した奇兵隊で活躍し、後に奇兵隊の軍監となった。明治維新後には元帥陸軍大将として日本陸軍の基礎を築いて「日本軍閥の祖」との異名をとり、第三代と第九代の内閣総理大臣にも就任した。伊藤博文と同じく明治維新後に庶民から出世を遂げた代表的人物である。

 「伏敵編」の巻之一には文応元年から文永十年までの事績、巻之二には文永十一年の事績、巻之三には建治元年から弘安三年までの事績、巻之四には弘安四年の事績、巻之五には弘安五年から永仁五年までの事績、巻之六には正安元年から嘉吉三年までの事績が掲載されている。

 鎌倉時代の蒙古襲来は文永と弘安の二度におよぶが、この資料集には「蒙古国・高麗との交渉」、室町時代の応永に起きた李氏朝鮮による対馬侵攻である「応永の外寇」、室町時代に李氏朝鮮と対馬国の宗貞盛との間で結ばれた通交協定である「嘉吉朝鮮通交条規」なども掲載され編年体で記述されている。

 この書籍が出版されて120余年経過しているが、現在に至るまでに新資料や新発見もあったにもかかわらず、この「伏敵編」を越える参考資料集は発刊されていない。これらの資料群は、交流の歴史が古い中国・朝鮮半島との交流関係が概観でき、日本との外交関係を研究する資料として大変に参考となるものであり、蒙古襲来・外冦関係の業績においては一級資料としての地位は高い。

 「西郷南洲先生遺訓」で紹介した監修者の重野安繹(文政十年・1827~明治四十三年・1910)は、江戸時代後期から明治時代に活躍した漢学者で歴史家である。日本歴史学に実証主義を提唱した魁でもある。また、日本初の文学博士でもある。薩摩藩時代には、藩主島津久光の命で「皇朝世鑑」を著す。明治時代には東京帝国大学の文学部教授に就任し、史学会の初代会長にも就任した。近代実証史学に基づき「赤穂義士実話」を著し、寺坂信行の逃亡説を論破して討ち入り参加の実証を提示したことは有名である。

 また、「枕草子春曙抄」「源平盛衰記」でも紹介した発行兼印刷者の吉川半七(よしかわはんひち・天保十年・1839~明治三十五年・1902)は、現代まで「歴史」にこだわった国文学研究書等を出版し続けている老舗出版社である「吉川書房(吉川弘文館)」の創業者である。「吉川弘文館」は、出版業界の偉業と呼ばれている「国史大辞典」を出版したり、日本史研究を志す学者が必ず出版を試みる出版社としても有名である。吉川半七は、本屋の玉養堂に奉公して江戸幕末の安政四年(1857)に独立を許され、この年を「吉川弘文館」の創業年としている。


靖方溯源の解説

   

 伏敵編附録の「靖方溯源」は、巻之上に上古から仁明天皇まで、巻之下に清和天皇から亀山天皇までの事績史書等の抜粋が掲載されている。元寇が鎌倉時代の出来事でもあり「東鏡」などが頻出するが、「日本書紀」から始まって「古事記」「新撰姓氏録」「豊前国風土記」「播磨風土記」「大日本史」「杜氏通典」「唐書東夷傳」「東国通鑑」「三国史記」「山海経」「漢書地理誌」「論衡」「後漢書」「魏志倭人傳」「晋書」「神皇正統記」「史記」「海東諸国記」「義楚六帖」「好古日録」「筑前奮志略」「東国史略」「文献通考」「日本政記」「征韓起源」「東国与地勝覧」「本朝通鑑」「三国志」「高句麗好太王碑文」「宋書」「満州源流考」「肥前国風土記」「隋書倭国傳」「大宝令」「軍防令」「唐六典」「令義解」「延喜式」「続日本紀」「夫木集」「太平記」「太宰管内志」「職原抄」「康熙字典」「和訓栞」「本朝軍器考」「五代史」「類聚国史」「類聚三代格」「文徳実録」「三代実録」「小右記」「扶桑略記」「北山抄」「西宮記」「菅家文草」「朝野群載」「神名帳」「宇佐宮縁起」「契丹国志」「政事要略」「古今著聞集」「百練抄」「本朝高僧傳」「鎮西要略」「大鏡」「左経記」「歴代皇記」「大金国志」「玉海」「平家物語」「宗像記」「歴代鎮西志」「北條九代記」「武家名目抄」「明月記」「帝王編年記」「立正安国論」「与宿屋左衛門入道書」「本化高祖年譜」「新編鎌倉志」と、膨大な資料を掲載した。

 特に、教科書に登場する「委奴國王印」「親魏倭王印」の印影や醍醐天皇宸筆の「敵國降伏」は興味深く観察した。そして、この書籍には日蓮大聖人が元執権得宗の北條時頼に提出した「立正安国論」の全文が掲載されているが、冒頭に「詩、庶女告天。齊公隕臺。賦心叩心。燕國飛霜。口傳、」の文が挿入されている。

 この「敵國降伏」は、現在では福岡の筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)の楼門に掲げられているが、醍醐天皇が下賜された三十七枚の御宸筆のうちの三枚であると「靖方溯源」は説明している。福岡の筥崎八幡宮は、京都の石清水八幡宮、大分の宇佐神宮とともに日本三大八幡宮の一つと呼ばれている。

 筥崎宮の解説によれば、「平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵國降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。」「敵国降伏の御宸筆は本宮に伝存する第一の神宝であり紺紙に金泥で鮮やかに書かれています。縦横約18センチで全部で三十七葉あります。社記には醍醐天皇の御宸筆と伝わり、以後の天皇も納めれられた記録があります。特に文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山(かめやま)上皇が納められた事跡は有名です。楼門高く掲げられている額の文字は文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、謹写拡大したものです。」とある。

 ここで「靖方溯源」に掲載されている「敵國降伏」について若干の意見を掲載しておく。

 上の写真の通り、醍醐天皇の三枚の宸筆に注目すると、「敵國降伏」以外の二枚には「國」の異体字が掲載されている。くにがまえの中に「民」と「王」の異体字が書いてあるのがそれである。日蓮大聖人が「立正安国論」でこの異体字を使用されたことは有名であるが、もし筥崎宮の解説が正しければ、平安時代初期には既に漢字「国」には三つの書き方が常用されていたことになる。つまり、教養人の間では至極あたりまえのことで、くにがまえの中に王と書く「くに」、くにがまえの中に戈という武器を入れた難しい字の「くに」という言葉とともに、もう一つ、くにがまえの中に民という字を入れた「くに」という字を使い分けていたのである。また、臣籍に生まれた唯一の天皇である醍醐天皇は、「延喜の治」と呼ばれた親政を行った天皇として有名であることを考えると、三種類の「くに」の漢字を使い分けたことは当然であるとも思えるのである。

 逆に、日蓮大聖人が「立正安国論」で、くにがまえの中に民という字を入れた「くに」を多用され、「立正安国論」を北條時頼に提出した鎌倉時代には、「民」が忘れ去られ「國・国」の意識で政治が行われたのであろう。ゆえに、日蓮大聖人はくにがまえの中に民の字を入れた「くに」を五十六回も多用され、親政への喚起を促されたのではないか。「立正安国論」を読む度に『くにがまえの中に民の字を入れた「くに」』を深く思考する樹冠人である。


蒙古襲来絵詞』の解説

   

 教科書にも登場する竹崎季長の武勇伝を描いた「蒙古襲来絵詞」であるが、竹崎季長は肥後国竹崎郷出身の鎌倉幕府の御家人であった。元軍の第一回目の侵攻である文永の役(1274年)では、季長は五名で先駆けを行い負傷者も出たが元軍を追い払うことに成功した。しかし、その武功は認められず、季長は鎌倉まで赴き幕府の恩賞奉行である安達泰盛に訴え、肥後国海東郷の地頭の地位を獲得する。第二回目の侵攻である弘安の役(1281年)では、季長は安達泰盛の子である盛宗の配下に入り、元軍の軍船に斬り込んで大活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。そして、永仁元年(1293年)に、鎌倉へ赴く事情や元寇における自らの武功などを中心に描かせた「蒙古襲来絵詞」を、神功皇后凱旋で甲冑を納めた鏑崎宮(かぶらざきぐう)から甲佐宮と改めた郷社の甲佐神社へ奉納したのである。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十五年(2013年)十月作成