『平安人物志』(へいあんじんぶつし)

    


タイトル:『平安人物志』(へいあんじんぶつし)

編輯者:弄翰子

出版書写事項:明和五戊子年三月吉日(1768年)

形態:全一冊 和装中本(B6版)

平安書林:三條通御幸町西江入町 百足屋治郎兵衛
     堀川通佛光寺下ル町  銭屋七郎兵衛

目録番号:win-0090004



平安人物志』の解説

 『平安人物志』(へいあんじんぶつし)は、弄翰子(ろうかんし・生没年不詳)が編纂した近世における京都在住の文化人・知識人を網羅して集成した人名録で、京都へ学問修行に上洛する人々に向けての情報を知らせるために刊行されたものである。その時代の人気度もわかる大事な資料でもあり、特に、画家研究の一次資料として大変貴重な資料となっているそうである。

 明和五年(1768年)の初版に始まり、安永四年(1775年)・天明二年(1783年)・文化十年(1813年)・文政五年(1822年)・文政十三年(1830年)・天保九年(1838年)・嘉永五年(1852年)・慶應三年(1867年)の全九版まで、ほぼ十年ごと順番に増補改訂され人々の役に立った。

 今回紹介する明和五年版は250年前に刊行された貴重な初版書籍であるが、「学者」「書家」「画家」「篆刻者」「卜筮者」「相者」の項目別にたくさんの有名人が掲載されている。まさに、人材豊富な文化都市の京都を思わせる書籍である。代表的な人物を掲載された順番に記載しておく。


此書は京都の学者方雅人方の姓名字号所書俗稱等まで委しく記す

平安人物志

  京師書林 博昌堂 芸香堂 同梓

≪学者≫

【伊藤長衡】

 伊藤長衡こと伊藤正蔵(いとうしょうぞう・貞享二年・1685~安永・1772)は、『中庸発揮』で紹介した古義学の提唱者である伊藤仁斎(いとうじんさい・寛永四年・1627~宝永二年・1705)の三男で、通称を伊藤正蔵、号を介亭・謙々斎とも称し、摂津高槻藩に仕えた。明和五年の時点の居所は「樵木町二條下ル樋口」と表示されているが、実は、現在の木屋町通が古くは樵木町通(こりきちょう)と呼ばれていたので、現在の「木屋町通二条下」となる。高瀬川開削者である豪商の角倉了以の別邸であった「高瀬川二条苑」(現在では日本料理レストランの「がんこ高瀬川二条苑」)が存在したエリアである。伊藤仁斎には長男に原蔵(東涯)、次男に重蔵(梅宇)、三男に正蔵(介亭)、四男に平蔵(竹里)、五男に才蔵(蘭嵎)と5人の男子がおり、「伊藤の五蔵」と称された優れた儒学者たちであった。なお、長衡は京都の二尊院に葬られている。

【伊藤善韶】

 伊藤善韶こと伊藤忠蔵(いとうちゅうぞう・享保十五年・1730~文化元年・1804)は、『中庸発揮』で紹介した古義学の提唱者である伊藤仁斎(いとうじんさい・寛永四年・1627~宝永二年・1705)の長男原蔵(東涯)の三男で、通称を伊藤忠蔵、号を東所・施政堂とも称し、伊藤仁斎が経営した古義堂を継いで、父東涯の著作刊行に力を注ぎ、諡号は修成先生である。明和五年の時点の居所は「堀川下立賣上ル町」と表示されているが、現在の伊藤家は「東堀川通下立売通上ル町」に位置している。伊藤仁斎には長男に原蔵(東涯)、次男に重蔵(梅宇)、三男に正蔵(介亭)、四男に平蔵(竹里)、五男に才蔵(蘭嵎)と5人の男子がおり、「伊藤の五蔵」と称された優れた儒学者たちであった。なお、善韶は京都の二尊院に葬られている。

【伊藤縉】

 伊藤縉こと伊藤錦里(いとうきんり・宝永七年・1710~明和九年・1772)は、伊藤竜洲の長男で名は縉、字は君夏、通称は惣治・宗太郎、別号に鳳陽。父に学びその跡を継ぎ越前福井藩の儒官となった。後述の弟の江村北海・清田儋叟と共に「伊藤三珠樹」として聞こえた。著作に「邀翠館集」などがある。明和五年の時点の居所は「上京本阿弥ノ辻子」と表示されているが、「本阿弥ノ辻子」は、室町時代初期より刀剣の砥・拭い・目利きのいわゆる三事を以て世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷が存在していた通りで、現在では白峯神社の東北側「油小路五辻下」地点のエリアで、本阿弥家屋敷跡として「本阿弥辻子」の名を今に残している。なお、錦里は京都の大雲院に葬られている。

【江綬】

 江綬こと江村北海(えむらほっかい・正徳三年・1713~天明八年・1788)は、福井藩儒の伊藤竜洲の第二子である。名は綬、字は君錫、通称は江村伝左衛門、北海と号した儒学者で漢詩人でもあった。父の友人である丹後宮津藩儒の江村毅庵の養子となり、前述の兄の伊藤錦里と後述の弟の清田儋叟と共に「伊藤三珠樹」として聞こえた。明和五年の時点の居所は「室町四条下ル町」と表示されているが、藩主の青山幸道が隠居したのを機会に致仕し、京都の室町に対梢館を建て隠居した。なお、北海は京都の本圀寺に葬られている。

【清絢】

 清絢こと清田儋叟(せいだたんそう・享保四年・1719~天明五年・1785)は、福井藩儒の伊藤竜洲の三男である。名は絢、字は君錦、父の本姓清田氏を称し通称は清田文興・文平、孔雀楼・千秋斎・儋叟などと号した儒学者であった。兄の伊藤錦里や江村北海と共に「伊藤三珠樹」として聞こえた。明石藩儒の梁田蛻巌に詩を学び福井藩に仕えたが京都に住んだ。明和五年の時点の居所は「今出川堀川西ヘ入」と表示されている。『孔雀楼筆記』『孔雀楼文集』『芸苑談』『芸苑譜』などすぐれた著作を遺した。なお、清絢は京都の大雲院に葬られている。

【那波師曾】

 那波師曾こと那波魯堂(なばろどう・享保十二年・1727~寛政元年・1789)は、播磨国姫路の人で、京都の巨星である藤原惺窩に師事し「惺窩門四天王」の一人と称された那波活所の五世の孫にあたる。名は師曾、字は孝卿、通称は那波主膳、魯堂・鉄硯道人と号した。儒学者の岡竜洲に師事して古注学を学び、聖護院村で生徒に教授した。明和五年の時点の居所も「聖護院村」と表示されている。師から破門されて朱子学に転じて古注学批判に転向し、その後、徳島藩主蜂須賀治昭に招かれ藩儒として活躍し、「四国の正学」と称された。著作には『学問源流』『左伝例』などがある。

【皆川愿】

 皆川愿こと皆川淇園(みながわきえん・享保十九年・1734~文化四年・1807)は、前述の伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学び、開物論を唱えたことで有名な儒学者である。名は愿、字は伯恭、通称は皆川文蔵、淇園以外の号に有斐斎がある。皆川春洞の長男として生まれ、実弟に国学者の富士谷咸章、甥には国学者の富士谷御杖もいる。絵画の腕も卓越しており山水画では、師匠である円山応挙に劣らずという評価を受けている。晩年には係わった藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」(上長者町通新町東入ルに現存「有斐斎弘道館」)を開いた。明和五年の時点の居所は「中立売室町西ヘ入町」と表示されている。著作には『助字詳解』『淇園文集』『淇園詩話』などがある。なお、淇園は京都の阿弥陀寺に葬られている。

【高孟彪】

 高孟彪こと高芙蓉(こうふよう・享保七年・1722~天明四年・1784)は、儒学者で画家でもあり、篆刻家で日本における印章制度を確立して「印聖」と称された偉人でもある。出身地の甲斐国高梨郡に因んで高と名乗ったと言われているが、甲斐国には高梨郡は存在していない。通称は近藤斎宮と称し、名は孟彪、字は孺皮、号は芙蓉の他に氷壑山人・三嶽道者・中嶽画史などを使用した。後述する池大雅と韓天寿とは終生の友として三人は連れ立って白山・立山を経て富士山を巡る旅をしている。この旅を記念して三人それぞれが「三嶽道者」を号したと言われている。明和五年の時点の居所は「衣棚下立売下町」と表示されているが、衣棚通は豊臣秀吉による京都改造で造られた通りで三条通から北に通じている通りで、多くの衣屋があったことが通り名の由来となっている。

【咸章】

 咸章こと富士谷成章(ふじたになりあきら・元文三年・1738~安永八年・1779)は、皆川春洞の次男で前述の儒学者の皆川淇園の弟である。柳河藩京都留守居富士谷家の養子となり国学者の道を歩んだ。通称は富士谷千右衛門、字は仲達、号は咸章・層城。子供に富士谷御杖がいる。明和五年の時点の居所は「中立売西洞院南角」と表示されている。漢学を兄の皆川淇園に、和歌を有栖川宮職仁親王に学んで、国語の品詞分類などに功績を残し、著書には『六運略図』『北辺七体七百首』などがある。

≪書家≫

【池無名】

 池無名こと池大雅(いけのたいが・享保八年・1723~安永五年・1776)は、書家で文人画家である。通称は池野秋平、諱は無名、字は公敏・貨成、号は大雅堂以外にも九霞山樵・霞樵・三岳道者などが知られている。唐様の書を習い始めたばかりの頃、京都の萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。前述の柳沢淇園に才能を見出され文人画を伝えられ、中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風や日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品が多く独自の画風を確立した。前述の高芙蓉と後述の韓天寿とは終生の友として三人は連れ立って白山・立山を経て富士山を巡る旅をしている。この旅を記念して三人それぞれが「三嶽道者」を号したと言われている。明和五年の時点の居所は「智恩院袋町」と表示されているが、この袋町とは京都祇園の北東側で東大路新門前通の東側エリアの町名である。後に、与謝蕪村も仮住居し上田秋成や村瀬栲亭や頼山陽の子孫が住んでいたことでも有名なエリアでもある。また、京都三大祭「時代祭」にも登場する妻の玉蘭も画家として知られ、明和五年版では玉蘭女「祇園下河原」と表示されているが、祇園社(八坂神社)の門前で茶屋を営んでいた女主人である。

【韓天壽】

 韓天壽(かんてんじゅ・享保十二年・1727~寛政七年・1795)は、書家で篆刻家でもあった。京都の青木家に生まれたが、伊勢の両替商中川家の養子となり通称は中川長四郎。百済の余璋王の後裔であることから韓を名乗り韓天寿と称し、字は大年、号は酔晋斎・三岳道者など。前述の高芙蓉と池大雅とは終生の友として三人は連れ立って白山・立山を経て富士山を巡る旅をしている。この旅を記念して三人それぞれが「三嶽道者」を号したと言われている。明和五年の時点の居所は「了頓辻子」と表示されているが、了頓辻子は、室町通と新町通の中程(衣棚通の南にあたる)を、三条通から六角通へと南行する小路である。辻子名と了頓図子町の名称は、祖先が足利氏の家臣で安土桃山期の茶人であった広野了頓の屋敷があったことに由来する。町民のために屋敷の中を表門から裏門へ通り抜けられるようにした通路が始まりである。

≪画家≫

【藤應擧】

 藤應擧こと圓山應擧(まるやまおうきょ・享保十八年・1733~寛政七年・1795)は、丹波国桑田郡穴太村(現在の京都府亀岡市)に農家の次男として生まれた画家である。穴太村には西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られ、現在でも穴太寺に奉納した應擧の絵を見ることができる。應擧は狩野探幽の流れを汲む鶴沢派の画家であった石田幽汀の門に入っている。本姓は藤原で通称は円山主水、号としては僊斎・一嘯・夏雲・仙嶺などを使用した。應擧は近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色で、「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。「四条河原遊涼図」「石山寺図」「賀茂競馬図」「円山座敷図」「三十三間堂図」など京都風景の眼鏡絵を制作したことでも有名である。明和三年(1766年)から「應擧」の号を使用し始めたことがわかっており、明和五年の時点の居所は「四条麩屋町東ヘ入丁」と表示されているが、この「丁」は「町」にあたるエリアである。

【謝長庚】

 謝長庚こと与謝蕪村(よさぶそん・享保元年・1716~天明三年・1784)は、画家で俳人であるが、京に居住して十年後の明和五年(1768年)当時においては俳人の項目も無く画家として有名であった。本姓は谷口または谷、「蕪村」は号であるが通称は寅、名は信章、画号は三菓亭・春星・謝寅など、ちなみに、「謝寅」は「しゃいん」と読ませている。俳号は蕪村以外では宰鳥・夜半亭・老雲などがある。ちなみに、俳諧師としては早野巴人(はやのはじん・夜半亭宋阿)に師事し俳諧を学んで一派の「夜半亭二世」に明和七年に推戴された。明和五年時点の居地は「四条烏丸東入町」と表示されているが、安永四年版と天明二年版では「仏光寺烏丸西入町」に移転し晩年を過ごした。

≪卜筮者≫

【新井白蛾】

 新井白蛾(あらいはくが・正徳五年・1715~寛政四年・1792)は、儒学者で卜筮者である。通称も新井白蛾で字は祐登・謙吉、号には黄洲・竜山・古易館などがある。三宅尚斎の門人である菅野兼山に師事して朱子学を学び、江戸で教え始めるが当時は荻生徂徠の門流が風靡していたので、京都に移り易学を究め「古易の中興」と呼ばれた。加賀藩藩校の明倫堂の創設に関わり、その学頭となり亡くなるまでその地位に居た。明和五年の時点の居所は「衣棚押小路下ル所」と表示されている。衣棚通は、豊臣秀吉による京都改造で造られた通りで三条通から北に通じていた。多くの衣屋があったことが通り名の由来となっている。


【参考】『平安人物志』(国際日本文化研究センター)




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成三十年(2018年)三月作成