『中庸発揮』(ちゅうようはっき)

    


タイトル:『中庸発揮』(ちゅうようはっき)

著者:伊藤維楨(仁斎)

出版書写事項:正徳四年(1714年) 新刊

形態:一巻全一冊 和装大本(B5版)

発行:京兆 文泉堂

目録番号:win-0080002



中庸発揮』の解説

 『中庸発揮』(ちゅうようはっき)は、伊藤維楨こと伊藤仁斎(いとうじんさい・寛永四年・1627~宝永二年・1705)が江戸時代前期に「古義学」を提唱し、その思想を著述した三本柱の一つである。伊藤仁斎は、江戸時代の前期に活躍した古学堀川学派の創始者である。また、今回紹介する書籍は300年前の正徳時代に発行された貴重な書籍である。

 山鹿素行(やまがそこう・元和八年・1622~貞享二年・1685)の「聖学」や伊藤仁斎(いとうじんさい・寛永四年・1627~宝永二年・1705)の「古義学」や荻生徂徠(おぎゅうそらい・寛文六年・1666~享保十三年・1728)の「古文辞学」など朱子学を否定した江戸時代の儒教学の学派を総称して「古学派」と呼んだ。

 素行の門弟には赤穂義士で有名な大石内蔵助(おおいしくらのすけ・万治二年・1659~元禄十六年・1703)や小野寺十内が在籍していた。元禄赤穂事件の処断には朱子学と異学の争いの側面も持っていたのである。また、「松下村塾 関連目録」で紹介した吉田松陰は山鹿流師範でもあり聖学の信奉者でもあった。寛政二年(1790年)に老中松平定信(まつだいらさだのぶ・宝暦八年・1759~文政十二年・1829)が発令した学問統制であった「寛政異学の禁」以降の「古学」は衰微するが幕末には復活隆盛した。

 伊藤仁斎は京都堀川に「古義堂」を開塾し、門弟が3000人にも及んだと伝わっている。また、現在でも伊藤家の居宅と書庫(東堀川通下立売上る)が現存し、書庫は仁斎時代のそのままが残っている。また、『翁問答』でも紹介した同時代を生き「垂加神道」を提唱した山崎闇斎(やまざきあんさい・元和四年・1619~天和二年・1682)の「闇斎塾」が近所に存在した。

 仁斎の先祖は堺の商人で祖父の時代に京都に移転し父も家業を継いだ。外祖母は『嵯峨本伊勢物語』で紹介した角倉了以の姪で、母は連歌師の里村紹巴の孫である。最初の妻は、尾形光琳の従姉の尾形嘉那で長男原蔵を生み早死にし、継妻は瀬崎富佐を娶り次男重蔵・三男正蔵・四男平蔵・五男才蔵を生んだ。仁斎は豪商たちに囲まれた生活環境であったのである。なお、子供たちの東涯(原蔵)・梅宇(重蔵)・介亭(正蔵)・竹里(平蔵)・蘭嵎(才蔵)の五人は「伊藤の五蔵」と呼ばれた秀才たちであった。

 仁斎は朱子学を批判したが、その根拠は「宋学(朱子学)には、孔子や孟子が説いた本来の教えではない仏教や道家の思想が混入していること」を知ったからである。そして、漢籍の研究会である「同志会」を作って、友人たちと討論を重ね、『論語』『孟子』『中庸』の独自の解釈の草稿を作った。仁斎が提唱した「古義学」の三本柱として『論語古義』『孟子古義』と今回紹介する『中庸発揮』の著作が存在するが、それら以外にも『語孟字義』『童子問』『大学定本』『周易乾坤古義』『仁斎日札』などがあり、『古学先生文集』『古学先生詩集』『古学先生和歌集』などの文学作品も遺している。

 仁斎の学問態度は、「朱子学は学問体系的には整然と整えられているが、体系成立過程において仏教の禅学や道家の老荘思想が混入し、儒家の経書の解釈に偏見がある」と考え、日本においては室町時代から禅宗五山学が支配的地位を占めていた宋学(朱子学)の経典解釈を排除して、特に、『大学』は孔子の遺著ではないと主張し、古の文献を検討し文献実証的態度で『論語』『孟子』『中庸』を検証して本来の儒教学を追究したものであった。つまり、仁斎は朱子が主張した理論を重んじる「理」の思想を批判して、人間味ある心情である「情」を思想の中核に据え、孔子の「忠信説」を発展させた孟子由来の「四端の心」や「性善説」を提唱したのである。

 「四書五経」(四書:論語・孟子・中庸・大学、五経:易経・書経・詩経・礼記・春秋)の「四書」の一つとしての『中庸』は、『礼記』の一篇で「礼記中庸篇」として伝承されてきたものである。『大学』が四書の入門書であるのに対して、『中庸』は最後に読むべき重書であるとされてきた。「史記評林」で紹介した司馬遷(紀元前145年~?)の『史記』で、『中庸』は中国戦国時代に活躍した孔子の孫である子思(紀元前483年~紀元前402年)の著作であると紹介され、これが通説となっている。しかし、現在では子思が著述したのは『中庸』の前半部と『礼記』の数篇であるとの説が有力となっている。

 また、「中庸」という言葉は、『論語』において、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子により強調されたのが文献上の初出であると伝わっている。そして、朱子の『中庸章句』で『中庸』が注目され、それ以来、儒教学の中心思想として重要視された。また、その「徳」を修養獲得する者は少なく高級な概念であるとも伝授された。

 「中庸」の「中」とは、「偏らない中間の存在」ではなく、「平均値」でもない。仏教の「中道」の概念が影響した可能性はあるが、それとも違う概念である。つまり、その時々の物事を判断する場面で片方に偏らないで、凡人でも理解できる感覚である。「庸」についての解釈は、朱子では「庸」を「平常」と解釈し、鄭玄は「庸」を「常」と解釈した。「庸」は「用」であるという説もあり、現在では「中」の道を「用いる」という意味だと解釈されている。

 仁斎は、『論語』は万人共通の倫理を述べたものであり「最上至極宇宙第一の書」と呼んで尊び、『孟子』は『論語』の義疏で孔子の思想を最もよく解説した書であると主張した。そして、子思の著述した『中庸』を加味して、孔子を中心とする儒家の思想を体系づけ「血脈」と呼び、『大学』でさえも文献批判の対象とされ、その体系から外れるものは孔子の遺著ではないと排斥した。

 仁斎の『中庸発揮』を簡潔にまとめると、「中庸」の「徳」を常に発揮することは聖人でも難しいが、学問をした人間にしか発揮できない存在でもなく、誰人も発揮することが出来るものである。しかし、「中庸」の説く「徳」は、いつも発揮することが難しいことから、「中庸」は儒教学の倫理的側面の行為の基準をなす最高概念であると解釈した。

 仁斎曰く、「孔子・孟子は、仁義礼智や忠信という実践倫理を説いたのであって、太極・性・理というようなものに意味を付与する宋学は、虚なるものであり、孔子らの説くところではない」と解説した。そして、生々変化することこそ世界の本質であり、「動」にこそ価値がある。性善とは「善」になる可能性があることを意味し、人間にとって最も大切なのは、学問と教育によって「善」の可能性を伸ばすこと、それが孟子の言う「拡充」であると説き、学問と教育の重要性を強調して実践した。「仁」についても、それを最高道徳の名称として思考する宋学に対して、「仁」は「愛」という実践行為に他ならないと説いた。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)五月作成