『聖教要録』(せいきょうようろく)

    


タイトル:『聖教要録』(せいきょうようろく)

著者:山鹿素行

出版書写事項:大正二年(1913年)十月十五日 復刻発行

形態:三巻全一冊 和装大本(B5版)

附刊:聖教要録辨義

編輯兼発行者:素行會代表者 古川黄一

印刷者:渡邊爲蔵

印刷所:民友社

発売元:民友社

目録番号:win-0080004



聖教要録』の解説

 『聖教要録』(せいきょうようろく)は、江戸時代初期に古学派始祖と呼ばれた山鹿素行(やまがそこう・元和八年・1622~貞享二年・1685)が「聖学」と呼んだ儒教学を提示し、朱子学を批判した先駆けの書籍である。山鹿素行の「聖学」や『中庸発揮』で紹介した伊藤仁斎(いとうじんさい・寛永四年・1627~宝永二年・1705)の「古義学」や荻生徂徠(おぎゅうそらい・寛文六年・1666~享保十三年・1728)の「古文辞学」など朱子学を否定した江戸時代の儒教学の学派を総称して「古学派」と呼んだ。

 儒学者としては古学派の祖、軍学者としては山鹿流兵法の祖と呼ばれた山鹿素行は、陸奥国会津で浪人であった山鹿貞以の子として生まれ、六歳で江戸に出て、九歳にして大学頭であった林羅山(はやしらざん・天正十一年・1583~明暦三年・1657)の門弟となり朱子学を学んだ。忌部神道を唱えた廣田坦斎に神道を学び、四十歳頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究した。その結果、天地から成る自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えるに至った。

 素行は、十五歳から甲州流兵学の創始者である小幡景憲(おばたかげのり・元亀三年・1572~寛文三年・1663)や景憲の高弟で後北条氏の一族である北条氏長(ほうじょううじなが・慶長十四年・1609~寛文十年・1670)の下で軍学を学んだが、朱子学を批判したことにより播磨国赤穂藩へお預け配流の身となり、赤穂藩では藩士の教育を行い、国家老の大石良雄こと大石内蔵助(おおいしくらのすけ・万治二年・1659~元禄十六年・1703)も門弟の一人であった。元禄赤穂事件以後の世評では、山鹿流は「実戦的な軍学」という評判が立つことになった。晩年には許され江戸へ戻り、十年間は軍学を教え、来訪者は二千人を超えたと伝わっている。

 素行の門弟には大石内蔵助以外にも小野寺十内など数多くの赤穂義士が在籍していた。元禄赤穂事件の処断には朱子学と異学の争いの側面も持っていたのである。また、「松下村塾 関連目録」で紹介した吉田松陰は山鹿流師範でもあり聖学の信奉者でもあった。寛政二年(1790年)に老中松平定信(まつだいらさだのぶ・宝暦八年・1759~文政十二年・1829)が発令した学問統制であった「寛政異学の禁」以降の「古学」は衰微するが幕末には復活隆盛した。

 武士道を政治哲学まで押し上げた先駆けでもある素行は、一生の内に夥しい数の著作を遺した。例えば、『兵法神武雄備集』『武教小学』『武教要録』『武教全書』『山鹿語類』『聖教要録』『東海道記』『謫居童問』『中朝事実』『武家事紀』『配所残筆』『原源発機録』『治平要録』などが有名である。

 寛文五年(1665年)に成立した『聖教要録』は、門人へ講義した『山鹿語類』から中核となる学説を抜き出し集録したものである。上中下の全三巻で構成された『聖教要録』は、「聖教要録小序」「目録」の後に、上巻に「聖人」「知至」「聖學」「師道」「立教」「讀書」「道統」「詩文」、中巻に「中」「道」「理」「徳」「仁」「禮」「誠」「忠恕」「敬恭」「鬼神」「陰陽」「五行」「天地」、下巻に「性」「心」「意情」「志気思慮」「人物之生」「易有太極」「道原」の28項目を配し簡潔な解説を添付して構成され、「周公・孔子を師として、漢・唐・宋・明の諸儒を師とせず」として周公孔子の原典から教えを学び、日常の礼節や道徳を重んずべきことを説いた。


 以下に『聖教要録』の主要箇所を抜萃する。

【聖教要録小序】

 聖人杳かに遠く、微言漸く隠れ、漢唐宋明の学者、世を誣ひ惑ひを累ぬ。中華既に然り。况や本朝をや。先生二千載の後に勃興し、迹を本朝に垂れ、周公孔子の道を崇び、初めて聖学の綱領を挙ぐ。

【聖教要録上】

聖人
 聖人は知ること至りて心正しく、天地の間通ぜざること無し。其の行や篤くして条理有り、其の応接や従容として礼に中る。其の国を治め天下を平らかにするや、事物各々其の処を得。

知至
 人は万物の霊長なり。血気有るの属は、人より知なるは莫し。聖賢は知の至りなり。愚不肖は知の習なり。知の至るは、物に格るに在り。

聖學
 聖學は何の為ぞや。人為るの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人為るの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず。生質の美、知識の敏も、道を知らざれば其の蔽多し。

師道
 人は生まれながらにして之を知る者に非ず。師に随いて業を稟く。学は必ず聖人を師とするに在り。世世聖教の師無く、唯だ文字記問の助のみ。

立教
 人教へざれば道を知らず。道を知らざれば、乃ち禽獣よりも害有り。民人の異端に陥り、邪説を信じ、鬼魅を崇び、竟に君を無みし父を無みする者は、教化行はれざればなり。

讀書
 書は古今の事蹟を載するの器なり。讀書は余力の為す所なり。急務を措きて書を読み課を立つるは、学を以て讀書に在りと為すなり。

【聖教要録中】


 中は倚らずして節に中るの名なり。知者は過ぎ愚者は及ばざるは、中庸の能く行はれざればなり。中庸を能くすれば、則ち喜怒哀楽、及び家国天下の用、皆な節に中る可し。中は天下の大本なり。


 道は日用共に由り当に行ふべき所にして、条理有るの名なり。天能く運り、地能く載せ、人物能く云為す。各々其の道有りて違ふ可からず。


 条理有るを之れ理と謂ふ。事物の間、必ず条理有り。条理紊るれば、則ち先後本末正しからず。 徳 徳は得なり。知至りて内に得る所有るなり。之を心に得、之を身に行ふを、徳行と謂ふ。

【聖教要録下】


 理気妙合して、生生無息の底有りて、能く感通知識する者は性なり。人物の生生、天命ならざる無し。故に曰く、天の命ずるを之れ性と謂ふ、と。

道原
 道の大原は、天地に出づ。之を知り之を能くする者は、聖人なり。聖人の道は、天地の如く、為すこと無きなり。乾坤は簡易なり。上古の聖人、天地を以て配と為す。董氏の所謂太原は、其の語意尤も軽し。


 素行は、なぜ朱子学を批判したのか。

 素行が活動していた時代までは「万物は一源である」との思想が主流で、素行は抽象的な理こそ万物の根源であるとする観念的思想の朱子学を批判し、存在する全ての物は「固有の理がある」と自然科学的考えを持ち、日常生活に役立つものが「学問」であると主張した。

 また、儒教学における「徳のある為政者である君子」を幕藩体制の下での武士の現実に当てはめて、武士は道徳的指導者として国を治め、士は農工商の三民の師匠として道を教え、高潔な人格を追究した武士道を要求した。つまり、武士が指導者となった江戸時代の「武士の存在意義」を明確に示し、武士道を政治哲学まで押し上げたのである。

 そして、素行聖学は、朱子学を基本精神に据え幕藩体制を整えようとする江戸幕府に反抗して、「士の忠孝の相手は主君にあらずして朝廷なり」とした尊王思想を掲げ、新しい武士道の精神を宣揚した。この思想は、江戸時代前期の赤穂浪士に浸透し「忠臣蔵」により庶民にまで影響を与え、江戸幕末の吉田松陰の「尊皇攘夷論」に発展し、明治時代には明治天皇を慕って殉死した乃木希介((のぎまれすけ・嘉永二年・1849~大正元年・1912)の「武士道」にも反映された。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)六月作成