『學問ノスゝメ』(がくもんのすすめ)

    


タイトル:學問ノスゝメ(がくもんのすすめ)

著者:福澤諭吉

出版書写事項:上段:明治七年(1874年)五編発行
       下段:昭和二十五年(1950年)発行

形態:上段:一巻全一冊(B6木版)
   下段:一巻全一冊(B6活版)

発行所:上段:福澤氏蔵版
    下段:株式会社岩崎書店 解説:昆野和七

目録番号:win-0050005



學問ノスゝメ』の解説

 福澤諭吉(天保五年・1835~明治三十四年・1901)については、「西洋事情 初編」で紹介したので省略するが、「學問ノスゝメ」は「西洋事情」「文明論之概略」と共に、福澤の三部作と呼ばれている著述である。

 福澤は明治時代に夥しい数の著作を発表しているが、明治新政府の方針が定まるまでは翻訳書籍を通じて西洋文明の紹介者の立場から情報を発信していた。つまり、福澤曰く、「西洋文明の一節づつの切り売り」をしていたのである。しかし、新政府の方針が確定すると、福澤は一転して態度を変え、旧思想の批判を開始し新文明の啓蒙活動を展開するキャンペーンに乗り出した。いわゆる、「學問ノスゝメ」のパンフレット・キャンペーンである。

 福澤はこの「學問ノスゝメ」をパンフレット形式で作成し、初編から十七編を著述している。各編とも十数ページで構成され、初編の明治五年二月から十七編の明治九年十一月まで五年間を掛けた大作である。この辺の事情を「デジタルで読む福澤諭吉」の解説を纏めてみると、

 「明治十三年刊合本の序に『本編は余が読書の余暇随時に記す所にして、明治五年二月第一編を初として、同九年十一月第十七編を以て終り』と記されている通り、毎編『何れも紙敷十枚ばかりのもの』であるが、夥しい売行を示したので各種の版本があり、福澤の死後、今日に至るまで種々の形で覆刻されている。」とある。

 そして、続けて書籍の体裁の説明では、「初編は、合本の序によって明治五年二月に刊行せられたものと知られるが、跋文には明治四年未十二月の日附がある。その初編の初版本が如何なる形のものであるかは、久しく研究家の問で議論されていたが、近年諸家の間で初版本と推定して誤りなかろうとほぼ意見の一致した一種の版本がある。それは大体四六版ぐらいの大きさ(一八×一一・五cm)の茶色表紙、本文西洋紙両面刷二十四頁、清朝体の活字二十三字詰八行に組んだもので、表紙の左肩に『學問のすゝめ 全』という文字をオーナメントで囲んだ題箋が貼ってある。本文第一行に『學問のすゝめ』次に『福澤諭吉 小幡篤次郎 同著』と記され、末尾の端書には、『余輩の故郷中津に学校を開くに付』学問の趣意を記して同郷の旧友に示すつもりで著したものを、人の勧めによって『慶應義塾の活字版を以て』印刷して出版したのであると述べ、巻頭と同様に『福澤諭吉 小幡篤次郎 記』と記してある。」とある。

 さらに偽版については、「明治五年五月付で『愛知県発行、福沢諭吉述、学問のさとし』と題する偽版が出ている。この偽版は初編の本文をそのまま翻刻し、末尾の一節を県庁の役人が管下の人民に諭示するような体裁に書き改めている。この末段の一節を書き改めたのは、愛知県の庁吏の作為ではなく、これには原本がある。旧中津藩文書中に『見聞雑記』と題する写本綴がある(中津市立図書館所蔵)。その中に無表題で『学問のすすめ』初編の写本が収められているが、その末段の一節が右の愛知県偽版の改鼠と全く同文で、最後に『辛未十二月 元中津県』と記してある。私の所見は右の写本のみであるが、恐らくその原の版本が出たのではないかと思う。伝えられるところによれば旧中津県知事奥平昌邁の『勧学文』なる文章があって、他の諸県から旧中津県に照会が寄せられ、中津県からこれに対しその『勧学文』のコピーを贈呈している記録があるというから、それがこの『學問のすゝめ』の末段を書き改めたものではなかろうかと思われる。愛知県の偽版はおそらくこの中津県の文書を模して作られたものであろう。」とある。

 以上は明治期の「學問ノスゝメ」についての詳細であるが、私こと樹冠人が愛読した書籍は、昭和期の「學問のすゝめ」である。明治期のパンフレット形式の「學問ノスゝメ」を蒐集することは至難であったこともあり、全体展望するには昭和期の「學問のすゝめ」が最良であった思い出がある。

 この「學問のすゝめ」でまず最初に驚いたことは、「岩崎書店」が作成した見開きページであった。それは、「あれ、岩波新書?」とあまりにも似ていて見間違える版型である。昭和十三年(1938年)に創刊された「岩波新書」は、英国の「ペリカンブックス」を参考に版型が決められたようであるが、私が調べた範囲では、この「岩崎書店」の版型の由来は不明である。なお、「岩波文庫」の「學問のすゝめ」は昭和二十四年に刊行されている。

 「岩崎書店」の「學問のすゝめ」の発刊意図は、解説を担当した昆野和七の「新版の序」によれば、「岩波文庫版として普及版を刊行したが、今回此の福沢著述の書に関する新資料が見出されたので、版を改めて再び普及版を出版することにした。」とあり、新資料について「はじめ十七編中に予定したものを著者が、途中で考えを変えそれを公刊しなかったもの二編である。」とある。この新資料の二編とは、「一身の自由を論ず」と題するものと、「表題はなく、民権論と国権論との関係を論じたもの」である。昆野和七はこの二編を「解題」の中で公表している。

 今回紹介した「學問のすゝめ」の構造は、昆野和七の「新版の序」に続いて、「目次」「合本學問之勧序」「附録」「解題」となっている。この中で特に気になったのが「附録 學問のすゝめの評」であった。それを記した者は「慶應義塾 五九樓仙萬 記」とあり、「五九樓仙萬(ごくろうせんばん)」とは福澤諭吉のペンネームである。このペンネームについては以下の逸話がある。

 福澤は、「學問のすゝめ」第六編の「国法の貴きを論ず」で、「赤穂浪士の仇討ち」は私的制裁であり「浅野内匠頭は切腹で吉良上野介は無罪という不合理を幕府の裁判に訴えるべきであった。」と論じた。そして、同じく第七編の「国民の職分を論ず」では、「忠君義士の大楠公(楠木正成)の討死と主君の命令を守ることができなかった権助の死」を同一視して、「私的な満足のための死で、世の文明の役に立たない。」と論じた。このことで福澤への批判が集まり、その応戦のために福澤は、「五九樓仙萬(ごくろうせんばん)」の名で「郵便報知新聞」に投稿し、「朝野新聞」「日新眞事誌」「横浜毎日新聞」などにも掲載された。

 この逸話の概略は、父からよく聞かされた内容であり、これも良き思い出である。

【参考】:「デジタルで読む福澤諭吉



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)三月作成