『福翁自傳』(ふくおうじでん)

    


タイトル:福翁自傳(ふくおうじでん)

著者:福澤諭吉

出版書写事項:明治三十二年(1899年)六月十五日発行

形態:全一冊(活版)

発行者:時事新報社 吉田東洋

印刷者:中西美重蔵

発行所:時事新報社

印刷所:ジャパン・タイムス社

目録番号:win-0050009



福翁自傳』の解説

 福澤諭吉(天保五年・1835~明治三十四年・1901)については、「西洋事情 初編」で説明したので省略する。「福翁自傳」は、諭吉の最晩年に口語体で纏めた自叙伝であり、生涯の閲歴を語った書籍である。近代思想の先駆けとなった教育者の自叙伝は貴重な文献書籍でもある。「門閥制度は親の敵」であると豪語した諭吉であるが、この書籍が出典である。

 今回紹介する「福翁自伝」は、諭吉が発刊させた新聞「時事新報」に、明治三十一年から明治三十二年まで連載され、明治三十二年六月十五日に発行された書籍である。

 西洋の学者が伝記を著すことから慶応義塾関係者から自叙伝の著述を勧められたこともあるが、当時の外国人から「維新前後の実歴談」のインタビューを受け述べたのがきっかけとなったようである。諭吉が口述し、その内容を速記者の矢野由次郎が速記した。そして、諭吉が推敲し訂正加筆した書籍でもある。

 また、アメリカの「フランクリン自伝」(ベンジャミン・フランクリン著作)を模範として著述されたともいわれている。話術の巧みさでも有名であった諭吉であるが、速記原稿からは口語文の記述においても非凡さが窺われる。

 今回紹介する書籍は、口絵に「最近之撮影」東京印刷会社製と明記された紋付羽織姿の半身写真が掲載され、福翁百話二十の「一夫一婦偕老同穴」の原稿写真を四つ折にしたものが添付されている。そして、序文は時事新報社の石河幹明が担当し、目次の後に、本文の最初には「福翁自傳」のタイトルの下に福澤諭吉口述、矢野由次郎速記と明記されている。

 奥附には明治三十二年六月十一日印刷、明治三十二年六月十五日発行、定価金四十銭、編輯兼発行者の上に丸印が押されている。その裏には、「福翁自傳を読む者は併せて先生が他の著書をも繙きて世間萬事に関する先生の意見を詳知す可し舊刊数十部は収めて福澤全集の中にあり其外は皆近来の新著に係る委細は次葉に明なれば就て見る可し」と印刷され、続いて、全五冊の「福澤全集」、十二版の「福翁百話」、五版の「修業立志編」、「福澤全集緒言」、日本一の「時事新報」の広告が四頁ほど印刷されている。なお、今回紹介する書籍は初版であるが、背に書名が金文字で打ち込まれた上製本に修復された書籍である。

 参考までに、「福翁自傳目次」と各章で印象深い部分を掲載しておく。

 「幼少の時」では、「門閥制度は親の敵」とあり、「蒙求、世説、左傳、戦国策、老子、荘子と云ふようなものも能く講義を聞き其先きは私独りの勉強、歴史は史記を始め前後漢書、晋書、五代史、元明史略と云ふようなものも読み殊に私は左傳が得意で大概の書生は左傳十五巻の内三四巻で仕舞ふのを私は全部通読凡そ十一度び読返して面白い処は暗記して居た」との記載もある。

 「長崎遊学」では、山本物次郎という砲術家の食客になり、砲術家の有様として「写本の蔵書が秘伝で其本を貸すには相当の謝物を取て貸す、写したいと云へば写す為めの謝料を取ると云ふのが先づ山本の家の臨時収入で」と記録し、奥平壱岐とのエピソードも掲載されている。

 「大阪修行」では、緒方洪庵の適々斎塾での蘭学修行についての詳細な記録を残し、「始めて規則正しく書物を教へて貰ひました」と記録した。

 「緒方の塾風」では、塾長時代の生活事情を克明に記録した。「一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であった」と記録し、「熊の解剖」や「道頓堀の芝居」などのエピソードも記録した。

 「大阪を去て江戸に行く」では、中津藩邸にあった蘭学者の岡見彦曹が主催する「一小家塾」の教師となり、佐久間象山の象山書院との交流や象山所蔵の洋書を熟読活用したエピソードも記録している。そして、この頃英語の重要性に目覚めている。

 「始めて亜米利加に渡る」では、木村摂津守、勝海舟、中浜万次郎などとの交流も詳しく記録している。そして、亜米利加で購入した洋書の話や幕府の外務省での書籍の話が掲載されている。

 「欧羅巴各国に行く」では、欧州に行く前に立ち寄った香港での惨状、マルセイユ・リヨン・パリ・ロンドン・ロッテルダム・ハーグ・アムステルダム・ベルリン・ペテルブルク・リスボンなどを訪問し、見聞したことを詳しく記録した。そして、「西洋事情」についても記載した。

 「再度米国行」では、三度目の外国行である亜米利加の話である。軍艦の話から始めて、開国主義、自由主義を語り、攘夷鎖港、台場の増築についても記載した。

 「王政維新」では、鳥羽伏見の戦争の話から始めて、士族の話、政治に関わらない淡白な生活、そして、「第一私は幕府の門閥圧制鎖国主義が極々嫌ひで之に力を尽す気はない」「第二左ればとて彼の勤王家と云ふ一類を見れば幕府より尚ほ一層甚だしい攘夷論でこんな乱暴者を助ける気は固よりない」「第三東西二派の理非曲直は姑く扨置き男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云ふが書生の事であるが私には其性質習慣がない」と記載し、慶応義塾誕生の由縁を記述した。ちなみに、明治元年の五月の上野の戦いの折りには、諭吉は塾内で淡々と経済書の講義を行っていた逸話が伝えられている。

 「暗殺の心配」では、「開国文明論」の敵による襲撃暗殺の心配を吐露している。

 「雑記」では、「廃刀」や「放任主義」「小欲にして大無欲」や「独立の気風」などについて記載した。

 「一身一家経済の由来」では、「凡そ世の中に何が怖いと云ても暗殺は別にして借金ぐらい怖いものはない」と、具体的な例を述べて経済の重要性を説いた。

 「品行家風」では、中津での家風から語り始め、家を成した後の有様を正直に記載している。

 「老餘の半生」では、

  「 鄙事多能年少春 立身自笑却壊身 浴餘閑坐肌全淨 曾是綿絲縫瘃人 」

  「 一點寒鐘聲遠傳 半輪残月影猶鮮 草鞋竹策侵秋暁 歩自三光渡古川 」

 の七言絶句を披露している。

 池田大作先生の「続若き日の読書」の「独立自尊の意気高く 福澤諭吉『学問のすめ』『福翁自伝』」の章末には、「明治十五年(1882年)三月一日、福沢はまた中立不偏の新聞『時事新報』を創刊した。独立自由の言論の府である。彼は、自ら社説の筆を執ってもいる。同月十一日、彼は三田の演説館で演説した。その演説をきいた聴衆のなかには、昂奮のあまり卒倒する者も出たという。さっそく演説筆記が『僧侶論』と題して『時事新報』三月十三日付の社説となった。肉食妻帯した僧侶の腐敗堕落、腰抜けぶりが痛撃されている。 百年後の今日でも彼の『僧侶論』さながらの姿が見うけられる。百年たっても封建遺制の軛(くびき)は取り去られていないのだ。今なお福沢諭吉の著作が広く読まれる所以(ゆえん)であろうか。」とある。

 ちなみに、この「福翁自伝」は現在でも版を重ねて、慶應義塾大学の新入生に配布されている必読書でもある。

参考:「デジタルで読む福澤諭吉



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)八月作成