『日本外史』(にほんがいし)

    


タイトル:日本外史(にほんがいし)

著者:頼久太郎(頼山陽)

出版書写事項:明治十三年(1880年)六月廿八日 別製本御届
       明治十三年(1880年)七月 出版
       頼氏蔵版(頼氏正本)

出版人:頼又次郎

形態:二十二巻全十二冊 和装大本(B5版)

発行書林:田中太右衛門(大阪府)
     柳原 喜兵衛(大阪府)
     和田治郎兵衛(大阪府)
     山内 五郎助(大阪府)

賛辞:風月翁(松平定信)文政十二年正月

外史例言:子成氏識

同校:男 頼元恊・男 頼復・男 頼醇・門人 後藤機

跋:後藤機撰 義子 敏書

引用書目:神皇正統記・今昔物語・平家物語・太平記・大日本史など全259書

目録番号:win-0010004



日本外史』の解説

 頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)の「日本外史」(以下、外史と表記)については、元治紀元版である程度説明したので、明治版は重複しないように、外史の構造や江戸期と明治期の違い等について触れることにする。

 まず、司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻であるが、山陽はこれを模範として「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の構想を立てた。外史全二十二巻は十三世家に相当し、武家政治の歴史であるから、征夷大将軍の職を奉じた家を「正記」とし、その前後に、重要な生家を「前記」「後記」と配列している。なお、「日本政記」が三紀に、「新策」「通議」が五書・九議・二十三策に相当する。山陽は、死の直前まで「日本政記」を脱稿していたので、「日本外史」「新策」「通議」と合わせて「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の構想は一応完結したことになる。

 なお、司馬遷の『史記』は史書であるが、外史の場合は史書というよりも歴史物語であると認識した方が良い。

 ところで、外史の配列は、源氏前記 平氏 源氏正記 源氏 源氏後記 北條氏 新田氏前記 楠氏 新田氏正記 新田氏 足利氏正記 足利氏 足利氏後記 後北條氏 足利氏後記 武田・上杉氏 足利氏後記 毛利氏 徳川前記 織田氏 徳川前記 豊臣氏 徳川正記 徳川氏 の順序となっている。

 ここで疑問が起きるのは、新田氏は征夷大将軍の職を奉じた家ではないにもかかわらず、源氏・足利氏・徳川氏と肩を並べて新田氏正記の項目を設けている点である。これは、徳川氏の先祖が新田氏から出たと言われたためで、徳川氏を持ち上げたように見せているのである。

 そして、新田氏が南朝の忠臣で一家一門をあげて正統の天皇を守ったことを強調し、徳川氏の現状は大義にもとるところがないのかと、問題を提起しているものと思われる。この当たりが、江戸幕府に対する細やかな配慮を施した点でもあり、現体制を直接に非難しないで、それとなく読者に悟らせる手法を使ったところが、外史において山陽が苦労した点でもある。

 また、各章の冒頭と終わりに「外史氏日」(外史氏日く)で始まる論文を配置して、自分の意見を論賛という形で述べている。この部分が山陽の真骨頂であり名文(清国で日本外史が出版されたとき、漢文学の文人達からも「左伝や史記に習った風格のある優れた文章」であると絶賛されている。)と呼ばれるところで、武家政治の性格を明らかにしようとしたのである。

 これが前人未到の着眼点で、天子を尊び覇者(武家幕府)を賤しむ「尊王賤覇(そんのうせんぱ)」の気運を盛り上げ、幕末の「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」へと発展する。

 さて、このように、外史の全体を貫く思想から江戸幕府にとがめられる可能性を秘めていたわけであるが、徳川吉宗の孫にあたる松平定信(号は楽翁・風月翁・花月翁)に読んでもらい、推薦の辞を得て、晴れて外史は完成した。

 ここに、風月翁の推薦の辞を掲載して参考としていただこう。

 「おほかた、ことをしるすに、もらさじとすれば、わづらわしく、また要をうしなふ。そのほどをうるものは、また、まれなるべし。評論などするも、わざさえ(才)にもとめず、おのずからの正理に至れば、穏当にして、その中道をうるがゆえに、朕兆(「ちんちょう」きざしの意)のめにみえざることまでも、のがす事なし。これをまたく(全く)そなへしものは、この『外史』とやいはんと、ひそかにおもへば、ここにしるしつ。後のひとの論、いかがあらん。 文政十一年正月 風月」

 そして、『頼氏正本の日本外史』の風月翁の記名日付の後に、以下の山陽のコメントが付記されている。

 「右楽翁老侯索外史後二年題其簡首者其近臣田内主税謄写来示秘蔵於家此其副也 頼襄謹識」

 なお、元治紀元版の校正の記名は頼元恊・頼復・後藤機とあり、明治期版のそれは「頼醇(らいじゅん)」が追記されている点に注目したい。なぜかといえば、「頼醇」とは、安政の大獄で処刑された頼山陽の子で「頼三樹三郎」だからである。

【参考】「日本外史」全巻




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)八月作成