『日本外史』(にほんがいし)

    


タイトル:日本外史(にほんがいし)

著者:頼久太郎(頼山陽)

出版書写事項:元治紀元(1864年)新刻
       頼氏蔵板

形態:二十二巻全六冊 和装中本(A5版)

発行書林:(江戸)須原屋茂兵衛・山城屋左兵衛
         須原屋伊八・岡田屋嘉七
     (京都)菱屋孫兵衛
     (大阪)象牙屋治郎兵衛・秋田屋太右衛門
         敦賀屋彦七・河内屋茂兵衛
         河内屋吉兵衛・河内屋喜兵衛

賛辞:風月翁(松平定信) 文政十二年正月

外史例言:子成氏識

同校:頼元恊・頼復・後藤機

跋:後藤機撰 義子 敏書

引用書目:神皇正統記・今昔物語・平家物語・太平記・大日本史など全259書

目録番号:win-0010003



日本外史』の解説

 頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)の「日本外史」(以下、外史と表記)は、山陽が二十二歳の享和元年(1801年)に思い立ち、文化四年(1807年)の二十八歳までに五度も書き直しをして一応は脱稿していた。しかし、その全体を貫く思想から江戸幕府にとがめられる可能性を秘めていたのである。また、外史の意図するところから、むしろ幕府に認めさせ公認の書籍にしなければ危険だったのである。

 そこで、当代一の文化人といわれ、寛政の改革で有名であり、徳川吉宗の孫にあたる松平定信(号は楽翁・風月翁・花月翁)に読んでもらい、推薦の辞をもらえば安心と考えたようである。松平定信の七人の娘は、紀州・越前・仙台・長州・佐賀・鳥取・庄内の有力な大藩の藩主に嫁しており、その声望は大きかったのである。

 山陽は文政十年(1827年)四十八歳のときに、「楽翁公に上(たてまつ)るの書」といわれる親書を起草して松平定信に提出したのである。この親書の特徴は、筆書するのに幕府を指すときは一字を上げ、朝廷を指すときは二字を上げて、大義名分を明らかにし、尊卑の順序を明確にしたことである。松平定信は全二十二巻を二十五日で読み上げ、その感激を文政十一年正月に風月翁の名で読後感を添えて書き付けた。

 脱稿して二十余年のときを経て、もはや幕府からとがめられるおそれは遠のき、写本を作って各方面に贈呈している。そして、その写本は伝写されて評判が日増しに高くなっていった。ことに、国学者の平田篤胤(国学四大人の一人)や南総里見八犬伝で有名な読本作家の曲亭馬琴(明治以後は「滝沢馬琴」)なども愛読したようである。特に、馬琴は特製の原稿用紙(滝沢文庫)を作り、全編を写し取り感想文を付けて愛読している。

 この本の構造は、「外史氏日」(外史氏いわく)から始まり、武家の興亡を中心に家系ごとに列伝体で書かれている。列伝体とは、中国の司馬遷の「史記」に始まる歴史の記述法で、作者の考え方や思想が一番反映されている技法と伝えられている。山陽も司馬遷の「史記」の愛読者だったのである。

 さて、外史が爆発的な人気を呼んだ理由の一つに、川越藩の藩校である「博喩堂(ばくゆどう)」の教材として、木活字で印刷した『校刻日本外史』の発行があったことを触れておかなければならない。前述の馬琴の筆写で触れたように、この当時の本・書籍は、一枚の版木で印刷する木版印刷で、高価でもあった。そこで、原書を借りて筆写することが通例であったのである。この苦痛を解消したのが経済的なコストダウンを目論んだ木活字印刷である。弘化四年(1844年)の初版から明治三十二年までに十四版も重ね、空前のベストセラーとなる。

 ところで、外史の初出版は天保七年(1836年)の拙修斎叢書(江戸後期に中西忠蔵が刊行した書籍で、得難い写本や出版の難しい政事向きの書から成り、規制のゆるやかな活字本ゆえの貴重な刊行事業とされている。)の和装大本(B5版)サイズの木活字版である。また、木版印刷は和装大本(B5版)サイズが通例で、B4サイズの用紙を二つ折りした和綴本である。

 今回の元治紀元(1864年)新刻 頼氏蔵板は、和装中本(A5版)サイズで、A4サイズの用紙を二つ折りした和綴本で小型サイズの書籍である。現代でいえば文庫本に当たり、持ち運びに便利なサイズである。元治紀元はまさしく幕末期で、幕末の志士たちが持ち歩いた本はこの形状の書籍ではないかと思われる。

 実は、『校刻日本外史』の初版から四年後の嘉永元年(1848年)に、京都と広島の頼家から『頼氏正本』(久太郎版)が出版される(明治期の久太郎版)。これらの出版を皮切りに、外史の版本は八十余種にも上るのである。

 『校刻日本外史』と『頼氏蔵板(版)の日本外史』の大きな違いは、風月翁の賛辞が『頼氏蔵板(版)の日本外史』にはあるが、『校刻日本外史』には印刷されていない点である。なお、校正や跋文の記名を見ると、校正は頼元恊・頼復・後藤機とあり、跋文は後藤機撰 義子 敏書とある。頼山陽と門人の後藤機の死後、遺子たちが共同で遺業を継いで出版していることが、何とも麗しく感じられる。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)八月作成