『西郷南洲先生遺訓』(さいごうなんしゅうせんせいいくん)

    


タイトル:西郷南洲先生遺訓(さいごうなんしゅうせんせいいくん)

著者:西郷南洲(西郷隆盛)

編者:片淵琢

出版書写事項:明治二十九年(1896年)五月十七日 発行

       研學會蔵版

形態:一巻全一冊 和装大本(B5版)

書:木内天民

序:副島種臣

発行所:研學會出版

印刷兼発行者:塩澤梅

賣捌書肆:上田屋(東京)
     東海堂(東京)
     東京堂(東京)
     六石書房(東京)

目録番号:win-0040001



西郷南洲先生遺訓』の解説

 西郷南洲こと西郷隆盛(文政十年・1827~明治十年・1877)は、薩摩藩の武士として生れた。薩摩藩主の島津斉彬(文化六年・1809~安政五年・1858)は、藩の富国強兵や殖産興業を推進した開明派の藩主として有名である。そして、斉彬は将軍継承問題では一橋慶喜を擁立し、篤姫を近衛家の養子にして将軍家定に嫁がせて画策している。下級武士の西郷にとって藩主の斉彬に抜擢されたことが、世に出る最大のきっかけであった。

 後に、西郷南洲は薩摩藩の大久保利通と長州藩の桂小五郎とともに、「維新の三傑」とよばれ、「慶應の功臣」とも呼ばれた。また、薩摩藩では「凱旋将軍」とも呼ばれた。しかし、明治六年には遣韓使可否論(世に流布した「征韓論」は誤りで、教科書等でも訂正すべきである。)で下野し、明治十年には「明治の賊臣」の濡れ衣を着ることになる。彼も波乱万丈の人生を生きた益荒男であった。

 「雨は降るふる 陣羽(人馬)はぬれる 越すに越されぬ田原坂 右手(みて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上豊かな美少年 天下とるまで 大事なからだ 蚤(のみ)に喰わせてなるものか」

 これは、明治十年に明治新政府に反抗した「西南の役」とも「西南戦争」とも呼ばれる武士最後の内乱を詠った詩である。この詩は私こと樹冠人が二十代に愛唱歌として、活動の中にもよく歌っていた詩でもあり、思い出が鮮明に甦るようである。また、西郷は勇壮に戦った那波列翁(ナポレオン)を敬愛していたとも伝わっている。

 「南洲翁遺訓」は、西郷南洲こと西郷隆盛の遺訓集である。実は、この遺訓は薩摩藩出身の人間が編纂したものではなく、庄内藩の藩士が編纂して明治二十三年に刊行した三矢本と呼ばれる遺訓集が始まりであった。庄内藩は旧幕府派として最後まで抵抗した藩であったので、戦後処理は厳しいものと覚悟していたが、西郷によって寛大な処置を受ける。その後、旧藩主以下数十名が薩摩藩を頼って訪問している。その時に西郷の生前の言葉や教訓などについて聞き書きし、集めた手記を編纂したものが三矢本である。和歌や漢詩も添付されており解説も加えられている。遺訓は四十一ヶ条で、二ヶ条の追記があり、問答と補遺で構成されている。

 今回紹介する佐賀藩出身の片淵琢(安政六年・1859~明治四十年・1907)が編纂した「西郷南洲先生遺訓」であるが、先の「南洲翁遺訓」を定本にして明治二十九年に刊行した遺訓であり、片淵本と呼ばれている。なお、片淵琢は佐賀藩の副島種臣(文政十一年・1828~明治三十八年・1905)の門弟となり、苦学生を支援する研究会を設立したり、品川弥二郎(天保十四年・1843~明治三十三年・1900)に知遇を得て、労働者信用組合を創設した社会事業家である。

 「西郷南洲先生遺訓」は、「南洲翁遺訓」の四十一則と追加二則をカタカナまじりの文体で掲載した明治期の教科書である。編者の片淵琢が「本書は学生諸子習字の模範に供せんため」と注記を添えている。副島種臣が序文を担当し、木内天民が揮毫したものを木版で印刷したものである。南洲翁の人道観や修養法や陽明学について学ぶには最良の書籍である。

 最後に、「征韓論」について特記しておく。

 徳冨蘇峰(文久三年・1863~昭和三十二年・1957)は、「征韓論は史上の一大疑案にして、今後も更に此の問題について史識と史実とを試むる者あるべき。予が切に待望するものである。」と悲願を記録した。そして、内村鑑三(万延二年・1861~昭和五年・1930)が「西郷の思想と行動が真に理解されるためには、なお今後百年を待つべし。」と暗示した「征韓論」の論争は、そろそろ終章を迎えていると思う。西郷が死して百三十有余年、私こと樹冠人も、一度世に流布したものを人々の根底から訂正する困難をしみじみと考えさせられる事柄が多々あるが、その中でも「征韓論」については、特に語っておかないといけない事柄であろうと思う。

 明治六年の参議論争が「征韓」か「遣韓使節派遣」かは長年に亘り議論されてきた。この問題には日本歴史学に実証主義を提唱した重野安繹(大久保利通とは親密関係)の存在が鍵となる。実証主義を提唱する本人が「太政官公式書簡」と「内閣府公式記録」を無視し、参議論争を「征韓の可否に当たり、外征派と内政派の議論である。」と断定流布させ史実を歪曲・捏造して流布させたのである。そして、「征韓論」の字句は現代の教科書にも掲載され続け日本歴史の常識ともなっている。

 「太政官公式書簡」とは、西郷が明治六年十月十五日付で太政官に提出した「朝鮮御交際の儀」と題した公式書簡である。この書簡は、朝鮮を征伐するのではなく交誼を厚くする趣旨が主張され、その議も参議会議で採用され使節派遣が決定されたことを明記した顛末書となっている。(「西郷南洲先生傳」に全文を詳記した。)

 「内閣府公式記録」とは、「大西郷全伝」の著者で有名な政教社にも関った雑賀博愛(明治二十三年・1890~昭和二十一年・1946)が内閣書庫から探し当てた公式記録である。この記録には、西郷の主張は「征韓論」(西郷発言に「征韓論」の字句は無い)ではなく「遣韓使可否論」とあり、当時の欧米・ロシアの東洋の植民地化からアジアを守るべく、中国と朝鮮と連携して喰い止める主張で、三條実美太政大臣に向けた演説が「西郷南洲口述筆記」と題して記録されている。この記録には「明治六年世にいわゆる征韓議論の廟堂に於て三條実美太政大臣に向かって為せる西郷隆盛の口述筆記」と追記説明されている。多くの参議の賛同を得た「遣韓使節派遣論」であるが、これに反して、欧米から帰国した岩倉具視・大久保利通の工作に敗れて、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の参議五名は下野した。

 なお、重野安繹(文政十年・1827~明治四十三年・1910)は、江戸時代後期から明治時代に活躍した漢学者で歴史家である。日本歴史学に実証主義を提唱した魁でもある。また、日本初の文学博士でもある。薩摩藩時代には、藩主島津久光の命で「皇朝世鑑」を著す。明治時代には東京帝国大学の文学部教授に就任し、史学会の初代会長にも就任した。近代実証史学に基づき「赤穂義士実話」を著し、寺坂信行の逃亡説を論破して討ち入り参加の実証を提示したことは有名である。

【参考】:「西郷南洲先生遺訓・口語訳付



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)一月作成