『西郷南洲先生傳』(さいごうなんしゅうせんせいでん)

    


タイトル:西郷南洲先生傳(さいごうなんしゅうせんせいでん)

編纂者:勝田孫彌

題書:島津忠重

題字:東郷平八郎

出版書写事項:昭和二年(1927年)十月二十四日 発行

形態:一巻全一冊(A5版)

印刷者:吉田松次

印刷所:株式会社秀英舎

発行所:南洲神社五十年祭奉賛會

目録番号:win-0040007



西郷南洲先生傳』の解説

 西郷南洲こと西郷隆盛(文政十年・1827~明治十年・1877)については、「西郷南洲先生遺訓」で説明したので省略するが、著者の勝田孫彌(慶應元年・1865~昭和十六年・1941)は、鹿児島県出身の歴史家で教育家でもある。明治法律学校(明治大学)に入学して法律学を学んだが、明治維新史の研究に興味を持ち、「西郷隆盛伝」「大久保利通伝」などを著述した人物である。

 この書籍の出版意図は、凡例で「本書の目的は史実に基づき、公平を旨とし、要領を失はざるよう編纂したのである。」と述べている通り、この時点までの南洲に関する資料を総点検して纏め上げたものである。また、南洲に最も深く関係した人物の写真が豊富に掲載されている。

 この書籍の書名は、忠重書とあり島津氏三十代当主の島津忠重(明治十九年・1886~昭和四十三年・1968)の書である。忠重は海に憧れて海軍に入り海軍少将となり、後には貴族議員となった。また、蘭の育種家としても有名で数多くの交配種を登録している。

 題字を担当した東郷平八郎(弘化四年・1848~昭和九年・1934)は、明治時代の海軍司令官として日清戦争・日露戦争の勝利に貢献した元帥海軍大将である。「陸の大山 海の東郷」「陸の乃木 海の東郷」とも呼ばれた英雄である。現在でも日本だけでなく世界的な名提督として崇拝者は多く、「東郷ビール」など彼の名を冠した品物は多い。

 今回紹介する「西郷南洲先生傳」には、「西郷南洲先生遺訓」でも触れた「太政官公式書簡」の「朝鮮御交際の義」について、全文が掲載されている。ここに、全文を記録しておく。

 「朝鮮御交際の義御一新の砌より及数度使節被差立百方御手を被為盡候へ共、悉く水泡と相成候のみならず屢々無礼を働候儀も有之、近来は人民輩の商道も相塞倭館詰合之者も甚困難の場合に立至候故、無御據護兵一大隊可差出御評議の趣承知いたし候に付、護兵之儀は決而不宜全闘争を醸成候譯に相當り、最初の御趣意に相反候間、公然と使節被差立可然奉存候若し彼より交際を破り戈を以て拒絶可致や其意底慥に相顕候處迄は是非不被盡候ては、人事におひて闕る所可有之自然暴挙も不被計杯との御疑念を以て非常の備を設け候ては又礼を失せられ候へ者○交誼を厚く被盡候御趣意貫徹候様有御座度其上暴挙の時機に至り候はば彼の曲事も判然可致付、其罪を天下に鳴らして征討可致譯に御座候いまだ十分盡さざるものを以て直様彼の非をのみ責候ては其罪眞に知る處無之彼我共疑惑いたし候故討人も怒らず討たるものも服せす候に付是非曲直分明にいたし候儀肝要之事と見込建言に及候處御採用相成御伺之上使節私に被仰付候筋御内定相成候次第に御座候此段形行申上候以上」 十月十五日 西郷隆盛

 以上、原文のまま掲載した。

 明治六年の参議論争が「征韓」か「遣韓使節」かについては、この南洲の始末書で明らかな様に、「征韓」の文字は無く「朝鮮御交際」「使節」の議論であることが判る。つまり、明治六年の参議会議の結論は「遣韓使節派遣」の決定であり、いつの間にか「征韓論」の議論に擦り替えられたのである。私こと樹冠人が想像するには、南洲は真義を尽くして異国と交際する本意が曲解された事に憤懣やるかたなく、在野の期間を置いたものと思われる。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)二月作成