梁塵秘抄『無量義経』(むりょうぎきょう)一首



梁塵秘抄『
無量義経』一首

 「無量義経に莟む花 霊鷲の峰にぞ開けたる 三十二相は木實にて 四十二にこそ熟りにけれ」




無量義経』の概説

樹冠人:仏の実体を明かした開経の「無量義経」は、鳩摩羅什(くまらじゅう・344年~413年または350年~409年)より約百年後の481年に、曇摩伽陀耶舎(どんまかだやしゃ)が訳した経典ですね。「無量義経」は、法華経の序文として位置づけられることから、天台大師は「無量義経」を開経と呼んだのですね。

妙櫻華:無量義経は、法華経の序分で、開経として大切な経典です。徳行品第一・説法品第二・十功徳品第三の一巻三品から構成されている経典です。まず、感動を与える場面は「大比丘衆万二千人」「菩薩摩訶薩八万人」の登場です。そして、「其菩薩名日」などの参加者の名前が列記され性格が披露されます。これら何万もの人々が「霊鷲山」に参集するのです。この場面は、「御義口伝について」でも解説したように、壮大な「譬喩蓮華」を表しています。

樹冠人:この経典には、「四十余年 未顕真実(四十余年の説法は、いまだ真実をあらわさず)」とあり、過去の釈迦の説法(華厳経から般若経まで)は真実ではないことを述べたのです。「法華経」を説くことは「時」であると菩薩摩訶薩八万人に説法します。しかし、菩薩摩訶薩たちは疑問だらけです。そこで、世尊は「四十余年 未顕真実」と諭し、今まで説いてきた経緯を説明します。この時の驚きは如何ばかりだったことでしょうか。

妙櫻華:また、他の経典では「女人不成仏」「二乗永不成仏」など、一切衆生を救済することができない不完全な経文で、「衆生の性欲が不同(千差万別)なことから、その機根に応じて別々に説いてきた。その説法は方便であり真実ではない」と明言したのです。

樹冠人:そして、「無量義経」には「善男子、菩薩若し能く是の如く一切の法門無量義を修する者は 必ず疾(すみやか)に阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。」とあり、「阿耨多羅三藐三菩提を成ずる」の偈の部分は、度々登場しますね。

妙櫻華:「法華経について」でも「成仏」について解説しましたが、つまり、「阿耨多羅三藐三菩提を成ずる」とは、「仏の生命を成ずる」ことで「成仏」のことです。

樹冠人:続いて、仏の実体を「三十四の否」で表現して、思考させる場面の登場ですね。「仏の実体」の追究については、池田大作先生の著作である「人間革命」の第四巻に登場した「戸田城聖先生の悟達」と「無量義経の三十四の否定」で有名な話ですね。

妙櫻華:「三月の初め、まだ寒さも消えやらぬ日、彼はまた、あらためて四回目の法華経を読みはじめていた。法華経の開経である、無量義経からである。」と前置きして、

其身非有亦非無 非因非縁非自他 非方非円非短長 非出非没非生滅

非造非起非為作 非坐非臥非行住 非動非転非閑静 非進非退非安危

非是非非非得失 非彼非此非去来 非青非黄非赤白 非紅非紫種種色

この「三十四の否」について、「彼は、この偈の部分が、十二行からなることを知り、『……に非ず』という否定が、三十四もあることを確かめた。」と記載されています。

樹冠人:そして、「戸田城聖は、この十二行の偈を心から納得したいと願った。さもなければ、もう一歩も先へ進まぬと決めた。彼は、法華経に対して背水の陣を張ったのである。その決意は、いわゆる観念の決意ではない、生命の対決であった。」「戸田城聖が不可解とした十二行は、冒頭の『其の身』が、いったい何を指しているのかにかかっていた。彼は、この十二行の意味するものの、確実な実体が存在することを直観していた。彼は唱題を重ねていった。そして、ただひたすらに、その実体に迫っていった。三十四の『非』を一つ一つ思い浮かべながら、その三十四の否定のうえに、なおかつ厳として存在する、その実体はいったい何か、と深い、深い思索に入っていた。時間の経過も意識にない。いま、どこにいるかも忘れてしまった。彼は突然、あっと息をのんだ。──『生命』という言葉が、脳裡にひらめいたのである。彼はその一瞬、不可解な十二行を読みきった。」とあり、

妙櫻華:続けて、「ここの『其の身』とは、まさしく『生命』のことではないか。知ってみれば、なんの不可解なことがあるものか。仏とは生命のことなのだ!彼は立ち上がった。独房の寒さも忘れ去っていた。時間もわからなかった。ただ、太い息を吐き、頬を紅潮させ、眼は輝き、底知れぬ喜悦にむせびながら、動き出したのであった。狭い部屋の中である。その中を、のっし、のっしと、痩せた体で、肩をいからし、両手をかたく握りながら歩き回った。──仏とは、生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」「法華経には『生命』という直截な、なまの言葉はない。それを戸田は、不可解な十二行に秘沈されてきたものが、実は、真の生命それ自身であることをつきとめたのである。仏というものの本体が解った。三世にわたる生命の不可思議な本体が、その向こうに遠く、はっきりと輪郭を現わしてきた思いがしたのである。」と記載されています。

樹冠人:そして、「無量義経」では「不可思議の功徳力」について第一から第十の不可思議な功徳を説明していますね。

妙櫻華:第一は「是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして、菩提心を発さしむ。」、第二は「能く百千億の義に通達して、無量数劫にも、受持する所の法を演説すること能わじ。」、第三は「諸の衆生に於いて憐愍の心を生じ、一切の法に於いて、勇健の想を得ん。」、第四は「諸の菩薩と、以て眷属と為り、諸仏如来は常に是の人に向かって、法を演説したまわん。是の人は聞き已って、悉く能く受持し、随順して逆らわず、転た復た人の為めに宜しきに随って広く説かん。」、第五は「能く大菩薩の道を示現し、一日を演べて以て百劫と為し、百劫を亦た能く促めて一日と為して、彼の衆生をして歓喜し信伏せしめん。」と説いた。

樹冠人:そして、第六は重要なポイントで、「衆生の為めに法を説いて、煩悩生死を遠離し、一切の苦を断ずることを得しめん。衆生は聞き已って、修行して得法、得果、得道すること、仏如来と等しく、差別無けん。」と、仏如来と同等と成れる可能性を示唆しましたね。

妙櫻華:第七は「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜は自然に在前し、即ち是の身に於いて無生法忍を得、生死・煩悩は一時に断壊して、菩薩の第七の地に昇らん。」、第八は「敬信すること仏身を視たてまつるが如くにして、等しくして異なること無からしめ、是の経を愛楽して、受持・読誦・書写・頂戴し、法の如く奉行し、戒・忍を堅固し、兼ねて檀度を行じ、深く慈悲を発して、此の無上大乗無量義経を以て、広く人の為めに説かん。」、第九は「宿業の余罪重障、一時に滅尽することを得、便ち清浄なることを得て、大辯を逮得し、次第に諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧、首楞厳三昧を得、大総持門に入り、勤精進力を得て、速やかに上地に越ゆることを得、善能く分身散体して、十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して、悉く解脱せしめん。」、第十は「皆な是の善男子・善女人の慈心もて懃ろに化する力に由るが故に、是の善男子・善女人は即ち是の身に於いて、便ち無量の諸の陀羅尼門を逮得せん。」と説いた。

樹冠人:そして、「爾時三千大千世界六種振動」とあり、大地が六種に振動しますね。それから、大荘厳菩薩摩訶薩は、八万の菩薩摩訶薩と座より立って、共に声を同じくして仏に言いました。

「世尊よ。我れ等は快く世尊の慈愍を蒙りぬ。我れ等が為めに是の甚深微妙無上大乗無量義経を説きたまう。敬んで仏勅を受けて、如来の滅後に於いて、当に広く是の経典を流布せしめ、普く一切をして受持・読誦・書写・供養せしむべし。」と、誓いを立てます。

妙櫻華:その後、「爾時仏讃言(爾の時、仏は讃めて言わく)」として、「善哉善哉 諸善男子 汝等今者真是仏子(善き哉、善き哉。諸の善男子よ。汝等は今者、真に是れ仏子なり。)」と讃嘆します。そして最後には、「爾時大会皆大歓喜 為仏作礼 受持而去」と、大会は皆な大いに歓喜して、仏の為めに礼をして、受持して去ったのです。




梁塵秘抄『
無量義経』一首の解説

樹冠人:梁塵秘抄の「無量義経」の項目には、一首しか掲載されていませんが、「法華経」の各品に掲載されている歌の状況から推測すれば、何首か存在したと思われますが。

妙櫻華:「法華経」が説かれる前段の壮大な情景が掲載されている「無量義経」は、「法華経」では何が説かれるのか?を想像させるドラマが数多く展開されています。「無量義経」には感動的な場面が多数存在するので、四首や五首の歌は創作されたと思われます。

樹冠人:しかし、現存した歌は「無量義経に莟む花 霊鷲の峰にぞ開けたる 三十二相は木實にて 四十二にこそ熟りにけれ」の一首だけでした。

妙櫻華:この歌は、「時」を意識する作風になっていますね。「無量義経に莟む花」とは、釈尊が説いてきた教説が「無量義経」に至って花開き、真実の経によって十もの功徳を与える実経である法華経が流布する時が熟したことを表現しています。

樹冠人:そして、「霊鷲の峰にぞ開けたる」は、釈尊が説法した霊鷲山で、時が熟して「法華経」を説くことができる場所の準備が整ったことを表現していますね。

妙櫻華:「三十二相」とは、仏の身体に備わっている特徴で、見てすぐに分かる三十二の相です。熟して「四十二」とは、「四十二品の無明」と関連する語句です。菩薩が断じなければならない四十二の無明惑のことで、釈尊は初住位から仏果に至る四十二品の無明惑を断じた妙覚位の仏であるとされます。

樹冠人:日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と仰せられていますね。

妙櫻華:「八十種好(はちじゅうしゅこう・はちじゅうしゅごう)」とは、菩薩が具える八十種の好ましい相のことで、三十二相と同様に仏身を荘厳する表現です。「如我等無異(にょがとうむい)」とは、「我が如く等しくして異なること無からしめん」と読み、仏の目的は自分(仏)と等しい境地に衆生を導くことにあるということです。

樹冠人:どのような人間でも等しく成仏の可能性を持っています。だれもが必ず、絶対的幸福な境涯を満喫する権利を持っていることを教えているのが、「無量義経」「法華経」の優れている点でもあるのですね。

妙櫻華:いわゆる、「無量義経」によって、仏の色心(身心)の実体が想像できるようになったわけです。そして、「無量義とは一法より生ず」とあり、この究極の一法こそ「法華経」で、仏の実体が説かれていくわけです。ここで大事なポイントは、大荘厳菩薩摩訶薩が、八万の菩薩摩訶薩と座より立って、共に声を同じくして仏に言った内容が重要です。

樹冠人:つまり、「如来の滅後に於いて、当に広く是の経典を流布せしめ、普く一切をして受持・読誦・書写・供養せしむべし。」との誓願は、「知っている」から偉いのではなく、「何のために」知っているかが重要で、「師匠の教えは素晴らしい」だけではなく、「だから、何としても人々に伝えていくのだ」との決意が重要となることを教えているのですね。



  梁塵秘抄が謳う法華経の世界
   著作者:ウィンベル教育研究所 妙櫻華・樹冠人
   平成二十四年(2012年)九月作成