『標註傳習録』(ひょうちゅうでんしゅうろく)

    


タイトル:標註傳習録(ひょうちゅうでんしゅうろく)

著者:王陽明

校註:三輪希賢

出版書写事項:正徳二年(1712年)開板
       洗心洞文庫蔵板

形態:四巻全四冊 和装大本(B5版)

傳習附録:大學古本序 大學問 王文成公年譜節畧

跋:高瀬武次郎(惺軒)

書:洗心洞文庫主事 山中馨

大正十三年八月惺軒(高瀬武次郎)贈呈の記名あり

目録番号:koten-0010009



標註傳習録』の解説

 「傳習録」は、中国の明国時代の王陽明(1472年~1529年)の弟子たちが王陽明の書簡や問答・言行を取り纏めた全三巻の書籍で、儒学における陽明学の入門書である。なお、現代日本において「陽明学」との呼び名が定着しているが、これは明治時代以降の呼び名であり、それ以前は陽明学を「陸王学」「心学」と呼んでいた。

 陽明学は、南宋時代の陸象山(1139年~1192年)が提唱し始めた学問である。ちなみに、心学の陸象山と朱子学の朱子(1130年~1200年)は同時代を生きて、お互いに議論を重ねるライバル関係であった。鵝湖の会(がこのかい)で両人が対面会談をしたことは有名な話でもあった。朱子は儒教の体系を整えた中興者として名高いが、道教と仏教の禅学を批判して儒学に専念した。陸象山は応天山に私塾を開き、陽明学に禅学を融合した講義をした可能性がある。

 心学の陸象山の流れを汲む王陽明(1472年~1529年)は、科挙に首席で合格した秀才であるが、仏教・詩学・武学にも通暁したと伝わっている。陽明は朱子学を学ぶとき「竹の理を窮める」として七日の間、竹の前に座り続け終には卒倒して倒れたという逸話が伝えられている程、探究心が旺盛であった。そして、宦官の横暴な政治姿勢を批判して「龍場」に左遷され、貧困生活に耐えて思索を続け、「龍場の大悟」と呼ばれる陽明学を構築した。

 日本においては、「近江聖人」で有名な中江藤樹(慶長十三年・1608~慶安元年・1648)が陽明学の始祖といわれている。「藤樹書院」で学んだ門下には勝海舟の「海舟座談」でも紹介した熊沢蕃山(元和五年・1619~元禄四年・1691)や淵岡山(元和三年・1617~貞享三年・1686)や中川謙叔(寛永元年・1624~万治元年・1658)などがいるが、江戸時代は朱子学を奨励した「異学の禁」の時代でもあったので、陽明学派の学者は意外に少ない。藤樹門下以外では、北島雪山(寛永十三年・1636~元禄十年・1697)・三宅石庵(寛文五年・1665~享保十五年・1730)・三輪執斎(寛文九年・1669~延享元年・1744)・三重松庵(延宝二年・1674~享保十九年・1734)などが陽明学を奉じた。

 今回紹介する「標註傳習録」は、版心は300年前の正徳二年(1712年)に開板となった貴重な書籍でもあり、日本で初めて「傳習録」に註釈を加えた三輪執斎こと三輪希賢の書籍を、大正時代に設立された「洗心洞文庫」が出版したものである。「洗心洞」とは大塩中斎こと大塩平八郎(寛政五年・1793~天保八年・1837)が興した私塾名で、平八郎が大切に保管していたものである。

 三輪執斎は儒学者の佐藤直方(慶安三年・1650~享保四年・1719)の門人で、佐藤直方は山崎闇斎(元和四年・1619~天和二年・1682)の「崎門学派」の流れを汲んだ儒者であるが「垂加神道」に異を唱え別流を形成した。京都生まれの闇斎は、土佐南学派を学び土佐藩の野中兼山(元和元年・1615~寛文三年・1664)の庇護を受け「垂加神道」を提唱して水戸学にも影響を与えた人物である。

 「標註傳習録」は、上巻・中巻・下巻・附録の全四冊で構成されている。特に、「傳習録」は「大學」の解釈に比重が置かれていることもあり「大學古本序」が掲載され、「王文成公(王陽明の諡)年譜節畧」と高瀬武次郎(明治元年・1869~昭和二十五年・1950)の跋文が掲載されている。そして、私こと樹冠人の所蔵している「傳習附録」には大正十三年八月惺軒(高瀬武次郎)贈呈の記名がある。

 高瀬惺軒こと高瀬武次郎は、「支那哲学史」「日本之陽明学」などの著作を持つ陽明学者であった。東京帝国大学を卒業し、京都帝国大学の助教授に就任し、天皇にも進講した。その後、立命館大学の文学部長を務めた名誉教授であった。

 陽明学の「傳習録」と朱子学の「近思録」は、儒学における最終段階のテキストといわれているが、「傳習録」は「南洲手抄言志録」で説明した佐藤一斎(安永元年・1772~安政六年・1859)が欄外に註釈を書き入れた「傳習録欄外書」でも有名である。一斎の「欄外書」で有名な著作には「傳習録欄外書」を含めて「論語欄外書」「大学欄外書」「中庸欄外書」「小学欄外書」「孟子欄外書」「近思録欄外書」「周易欄外書」「易学啓蒙欄外書」「尚書欄外書」の全十編存在するが、これらは「愛日楼全集」に収録されている。ちなみに、「愛日楼」は佐藤一斎の号である。

 なお、一斎の門弟には、江戸後期に活躍した渡邊崋山(寛政五年・1793~天保十二年・1841)・山田方谷(文化二年・1805~明治十年・1877)・横井小楠(文化六年・1809~明治二年・1869)・佐久間象山(文化八年・1811~元治元年・1864)・中村敬宇(天保三年・1832~明治二十四年・1891)などの逸材が出現した。ちなみに、佐久間象山の門弟には、吉田松陰・橋本左内・坂本龍馬・河井継之助など幕末の志士が多い。

 実は、幕末以降に陽明学に影響を受けた逸材は意外に多く、

 岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)・伊藤忠兵衛(伊藤忠財閥の創業者)

 藤田伝三郎(藤田財閥の創業者)・渋沢栄一(日本資本主義の父)

 富岡鉄斎(日本最後の文房の人)・幸徳秋水(大逆事件で有名な社会主義者)

 内村鑑三(無教会主義のキリスト教思想家)・北村透谷(ロマン主義の詩人)

 新渡戸稲造(国際連盟事務次長を務めた教育者)

 植木枝盛(自由民権運動の思想家・政治家)

 田中正造(足尾銅山鉱毒事件で有名な政治家)

 中江兆民(東洋のルソーの異名を持つ自由民権運動の思想家)

 岡倉天心(美術思想家)・陸羯南(国民主義の政治評論家)

 国木田独歩(近代の小説家・詩人)・三宅雪嶺(在野の哲学者)

 西田幾多郎(京都「哲学の道」で有名な京都学派の哲学者)

 夏目漱石(英文学者で小説家)・乃木希典(学習院院長で陸軍大将)

 根津山洲(教育者で陸軍軍人)・三島中洲(漢学者で二松学舎の創始者)

 安岡正篤(陽明学者)・三島由紀夫(盾の会で有名な劇作家・小説家)など、あらゆる分野に逸材を出現させた。

 私こと樹冠人が考えるに、陽明学に影響を受けた逸材たちの共通した特徴は、「漢学の基礎素養」を有し、「陽明学の知行合一」を信奉して思想の基礎を構築して、「新境地」を開拓した人々であったと思う。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)八月作成