『南洲手抄言志録』(なんしゅうてしょうげんしろく)

    


タイトル:南洲手抄言志録(なんしゅうてしょうげんしろく)

著者:西郷南洲(西郷隆盛)

編者:秋月種樹

出版書写事項:明治二十一年(1888年)五月十七日 発行
       研學會蔵版

形態:一巻全一冊 和装大本(B5版)

書:吉田晩稼

題字:山縣有朋

詠詩:勝海舟

序:秋月種樹

発行所:研學會出版

印刷兼発行者:塩澤梅

賣捌書肆:上田屋(東京)
     東海堂(東京)
     東京堂(東京)
     六石書房(東京)

目録番号:win-0040003



南洲手抄言志録』の解説

 西郷南洲こと西郷隆盛(文政十年・1828~明治十年・1877)については、「西郷南洲先生遺訓」で説明したので省略するが、「言志録」は佐藤一斎(安永元年・1772~安政六年・1859)が著した語録である。

 「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」の四書を併せて「言志四録」と総称され、全1133箇条で構成されている。一斎が四十余年の歳月を費やして編纂した語録である。なお、「耋」は「てつ」と読み「老いに至る」の意味である。「手抄言志録」は西郷南洲がこの「言志四録」から101箇条を選び出して座右の書としたものである。

 佐藤一斎は、林述斎(明和五年・1768~天保十二年・1841)の門弟となり昌平黌に七十歳で赴任して、将軍家や諸大名の招聘を受けて講義をしている。述斎は、寛政の三博士と呼ばれる柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲と共に儒学の興隆に力を注ぎ、寛政の改革を支えた人物である。なお、この時期に昌平黌は昌平坂学問所として幕府直轄となり、「寛政異学の禁」(本来は昌平坂学問所での異学の禁であったが、全国の藩校にも波及した。)が推進される。

 博識で温厚な陽明学者の一斎は「陽朱陰王」と呼ばれ、朱子学を推奨する「寛政異学の禁」の時代であったが、朱子学と陽明学を対立する関係と認識しておらず、折衷した中に孔孟の精神を読み取ることを心掛けたようである。また、朱子学を中途半端に学んだ者には陽明学を伝授していないのも特徴である。

 林述斎の死後、儒官となった一斎には門弟が3000人以上いたといわれ、江戸後期に活躍した渡辺崋山(寛政五年・1793~天保十二年・1841)・山田方谷(文化二年・1805~明治十年・1877)・横井小楠(文化六年・1809~明治二年・1869)・佐久間象山(文化八年・1811~元治元年・1864)などは陽明学を伝授されている。

 一斎は「蛮社の獄」で門弟の渡辺崋山を擁護しなかったことで、明治以降現代まで「言行不一致」との批判を受けているが、現在でも「言志四録」「南洲手抄言志録」を座右の書としている各界指導者は多いようである。

 「蛮社の獄」とは、天保時代に南蛮の集まりと呼ばれた「蛮社」に対する弾圧事件である。「尚歯会」(渡辺崋山・高野長英・小関三英などの集まり)への弾圧は有名である。この事件は、江戸で蘭学が興隆したことに対する儒家である林家の対抗措置でもあった。

 今回紹介する秋月古香こと秋月種樹(天保四年・1833~明治三十七年・1904)が編纂した「南洲手抄言志録」については「西郷南洲遺訓」でも少し触れたが、編者の秋月種樹は高鍋藩主の子として生まれ、維新後は明治天皇の侍読となり貴族院議員でもあった。また、明治時代の書家としても有名であった。

 「南洲手抄言志録」の初出版は明治二十一年(1888年)五月十七日で、東京博聞社から刊行されたものと、同年月日付けで出版された今回紹介する東京の研學會蔵版が存在する。

 研學會蔵版は、「秋月種樹偶評 南洲手抄言志録」と題し、山縣有朋の題字と勝海舟の南洲詠詩を巻頭に冠している。また、秋月自ら叙言を担当し、書は吉田晩稼が担当している。なお、この書籍は、現存数が少ない貴重な書籍でもある。

 書を担当した吉田晩稼(ばんこう・天保元年・1830~明治四十年・1907)は、江戸時代後期の長崎に生まれ、兵法家の高島秋帆に学び勤王を説いて諸国を遍歴した。その後、山縣有朋の秘書となり海軍にも関った人物である。維新後は、書法を究め晩稼流を確立して明治期の教科書の多くは彼の書体で作成された。晩稼の揮毫したものは靖国神社の石標や官公庁の門標など数多く現存する。また、印刷書体の世界では晩稼流は有名である。

 この書籍は、西郷南洲が選び出した言志録の各文言の後に、秋月が偶評を一文字下げて添付して、幕末から維新にかけての南洲の益荒男ぶりを詳細している。また、徳川慶喜公・三條公・七卿・山内容堂公・松平春嶽公・私學校・月照・木戸公・岩倉公・後藤象二郎・坂本龍馬・勝安房・山岡鉄太郎・藤田東湖・榎本武揚・江藤新平・前原一誠などを登場させて、討幕から南洲の最期までの顛末を流れのままに詳細している。まさしく、この時代の人の動きが概略でき、明治維新の時勢が手に取るように判る体裁に仕上げられている。

 最後に、幕末から明治に活躍した山田方谷(文化二年・1805~明治十年・1877)について触れておく。

 山田方谷は備中聖人と呼ばれ、「西郷南洲遺訓」の著者である山田済斎は方谷の義孫にあたる。方谷は晩年に閑谷学校の後身である「閑谷精舎」を再興し、岡山藩の教育振興に貢献した人物である。「閑谷学校」は、江戸時代の岡山藩主池田光政(慶長十四年・1609~天和二年・1682)によって創設された世界最古の庶民の学校である。頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)などの著名人も来訪し、大鳥圭介(天保四年・1833~明治四十四年・1911)は少年時代を閑谷学校で学び、緒方洪庵の適々斎塾に入門した。現在では、講堂は国宝に指定され、その他の建物も重要文化財に指定されている。
 ちなみに、山田方谷の名を冠した小惑星が存在することは有名である。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)一月作成