『本朝六國史』(ほんちょうりっこくし)

    


タイトル:本朝六國史(ほんちょうりっこくし)

著者:伴信友

出版書写事項:明治四十年(1907年)三月発行

形態:全一冊 (B6縮刷版)

翻刻兼発行者:櫻井庄吉

印刷者:櫻井庄吉

発行所:郁文舎・吉岡寶文館

目録番号:nihon-0010002



本朝六國史』の解説

 「本朝」とは、わが国の朝廷という意味であるが、日本国の別呼称ともなった。「六國史」とは、日本の律令国家が編纂した六種類の正史である。かつて、飛鳥時代から平安時代に建設された国家が国家事業として編纂した史書であるが、現存した六種類をまとめて「六國史」と呼んだ。また、「六國史」以前にも史書は編纂されたようであるが、現存していないようである。

 今回紹介する「本朝六國史」の編者である伴信友(ばんのぶとも・安永二年・1773年~弘化三年・1846年)は、小山田与清(おやまだともきよ・天明三年・1783~弘化四年・1847)・橘守部(たちばなもりべ・天明元年・1781~嘉永二年・1849)・平田篤胤(ひらたあつたね・安永五年・1776~天保十四年・1843)の三人と共に「天保の国学四大人」と呼ばれた江戸時代後期の国学者である。

 伴信友は、「古事記講義」で紹介した「古事記傳」で有名な本居宣長(もとおりのりなが・享保十五年・1730~享和元年・1801)の学究姿勢に心酔して門戸を敲こうとしたが、宣長が入門前に死去したため果たせず、宣長の養子の本居大平(もとおりおおひら・宝暦六年・1756~天保四年・1833)に入門した。江戸後期の国学は道学的検証を重視した学問になったが、信友は文献考証学を推進して親友の平田篤胤とも絶交に至り、生涯に弟子を持たなかった。

 「六國史」の六種類の正史は、「日本書紀」「續日本紀」「日本後紀」「續日本後紀」「文徳實録」「三代實録」であるが、今回紹介する書籍は、伴信友(安永二年・1773年~弘化三年・1846年)が校訂したものを定本にして「古事記」「先代舊本記」「釋日本記」「日本紀私記」「日本紀纂疏」「日本書紀通證」「書紀集解」「類聚國史」「和名類聚鈔」「古事記傳」「紀記歌集」「萬葉集古義」「日本紀通釋」などの書籍を校合したものである。なお、「六國史」の成立過程を含めて、それぞれの概略を列記する。


【日本書紀】

 「日本書紀」(にほんしょき)は、舎人親王(とねりしんのう・天武五年・676~天平七年・735)が編纂撰者となり奈良時代の養老四年(720年)に完成した正史である。天武天皇の皇子で淳仁天皇(廃帝)の父である太政大臣の舎人親王は、当時としては長命で「平城京の建設」「聖武天皇の治世」「長屋王の変」「光明子の立皇后」「藤原氏の権勢」などに関った実力者で、最終的には「崇道尽敬皇帝」と追号された。

 「日本書紀」は、編年体の全三十巻で構成され、神代から持統天皇までを掲載している。巻第一と第二には神代、巻第三には神武天皇、巻第四には緩靖・安寧・懿徳・孝照・孝安・孝霊・孝元・開化天皇、巻第五には崇神天皇、巻第六には垂仁天皇、巻第七には景行・成務天皇、巻第八には仲哀天皇、巻第九には神功皇后、巻第十には應神天皇、巻第十一には仁徳天皇、巻第十二には履中・反正天皇、巻第十三には允恭・安康天皇、巻第十四には雄略天皇、巻第十五には清寧・顕宗・仁賢天皇、巻第十六には武烈天皇、巻第十七には継體天皇、巻第十八には安閑・宣化天皇、巻第十九には欽明天皇、巻第二十には敏達天皇、巻第廿一には用明・崇峻天皇、巻第廿二には推古天皇、巻第廿三には舒明天皇、巻第廿四には皇極天皇、巻第廿五には孝徳天皇、巻第廿六には斉明天皇、巻第廿七には天智天皇、巻第廿八・第廿九には天武天皇、巻第三十には持統天皇の事歴が詳細に記載されている。

 なお、「日本書紀」には「古事記」とは異なり成立経緯が記載されておらず、書名にも疑問が残っている。それは、後に成立する「續日本紀」の記述により経緯はわかるが、中国では、紀伝体の史書を「書」、編年体の史書を「紀」と表現していることから、現代では「六國史」の他の正史の名称との整合性を考え合わせて、「当初より日本紀であった」との説が有力になりつつある。ちなみに、平安時代に編纂された「江談抄」では、撰者の項目において「日本紀撰者事」と記述している。


【續日本紀】

 「續日本紀」(しょくにほんぎ)は、菅野真道・藤原継縄等が編纂撰者となり平安時代初期の延暦十六年(797年)に完成した正史である。菅野真道(すがのまさみち・天平十三年・741~弘仁五年・814)は、百済の貴須王の末裔で桓武天皇の信任が厚かった公卿で、平安京の遷都に関った参議である。藤原継縄(ふじわらのつぐただ・神亀四年・727~延暦十五年・796)は、藤原南家の藤原武智麻呂の孫で、夫人が百済王氏の出身でもあった。桓武天皇の信任も厚く参議として公卿に列した右大臣である。

 「續日本紀」は、編年体の全四十巻で構成され、「日本書紀」に掲載された天皇以降の天皇事歴を纏め、文武天皇から桓武天皇までを掲載している。巻第一から第三には文武天皇、巻第四から第六には元明天皇、巻第七から第九には元正天皇、巻第十から第十七には聖武天皇、巻第十八から第二十には孝謙天皇、巻第廿一から第廿五には廃帝、巻第廿六から第三十には稱徳天皇、巻第卅一から第卅六には光仁天皇、巻第卅七から第四十には桓武天皇の事歴が詳細に記載されている。

 全四十巻に纏め上げられた経緯については、まず前半の巻第二十までは、光仁天皇の命で当初全三十巻で文武天皇から孝謙天皇までを纏める予定であった。しかし、資料を紛失したことを理由に中断した。そして、桓武天皇の命により菅野真道らが前半二十巻に纏め上げた。後半は、桓武天皇の命により淳仁天皇(廃帝)から光仁天皇までを一旦は全二十巻で纏めたが、しかし、淳仁天皇(廃帝)の問題が発生したため、藤原継縄らが十四巻に圧縮して完成させた。そして、菅野真道らが桓武天皇の前半の事歴を纏め追加して二十巻とし、全四十巻に纏め上げて編纂は終了した。

 なお、律令国家の体裁が整ったことにより、「日本書紀」に比べて資料も充実して記録の精度は高く、「実録の整備が施され史書の体裁が確立した信頼性の高い正史である」との説が有力である。また、「六國史」の「續日本紀」では、淳仁天皇は長期間に渡り「廃帝」と表記されたままであった。


【日本後紀】

 「日本後紀」(にほんこうき)は、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ・宝亀五年・774~承和十年・843)等が編纂者となり平安時代初期の承和七年(840年)に完成した正史である。藤原式家の藤原緒嗣は、藤原百川(ももかわ・天平四年・732~宝亀十年・779)の長男で、桓武天皇・平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇に仕えた参議として、長期間に亘り公卿に列した左大臣で、賢明な政治家として有名であった。嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇の三代に渡って編纂された「日本後記」に一貫して関ったのは藤原緒嗣だけであった。

 「日本後紀」は、編年体の全四十巻で構成され、「續日本紀」に続いて編纂されたが、現存しているのは塙保己一(はなわほきいち・延享三年・1746~文政四年・1821)の門人である稲山行教が発見した十巻分の巻第五・八・十二・十三の桓武天皇、巻第十四・十七の平城天皇、巻第二十・廿一・廿二・廿四の嵯峨天皇の事歴である。また、淳和天皇については散逸して全く現存していない。「六國史」のダイジェスト版である「日本紀略」と、「六國史」の項目分類である「類聚国史」から本文の復元は可能である。「類聚国史」は、「六國史」の記載を中国の唐時代の「類書」を模範にして分類再編集したもので、菅原道真(承和十二年・845~延喜三年・903)の編纂により、寛平四年(892年)に完成した歴史書である。

 なお、塙保己一は、江戸時代に活躍した国学者で、失明後は「検校(けんぎょう)」として学問を追究して総検校の位に登りつめた国学者でもある。晩年の賀茂真淵(かものまぶち・元禄十年・1697~明和六年・1769)に師事し「六國史」などを学び、古書の散逸を危惧して寺社・公家・武家を廻り、史書や文学作品の概略を纏め上げた666冊から成る「群書類従」を完結できたのは七十歳代であったと伝わっている。また、「群書類従の版木」は国の重要文化財に指定されている。


【續日本後紀】

 「續日本後紀」(しょくにほんこうき)は、文徳天皇の命で藤原良房(ふじわらのよしふさ・延暦二十三年・804~貞観十四年・872)等が編纂撰者となり平安時代の貞観十一年(869年)に完成した正史である。藤原北家の藤原冬嗣の二男として生まれた良房は、皇族以外で摂政となった臣下で摂関政治の全盛期を築いて、以後の子孫は摂政関白を拝命した。

 「續日本後紀」は、編年体の全二十巻で構成され、「續日本紀」に続いて編纂された。各巻の巻頭には「太政大臣従一位臣藤原朝臣良房等奉 勅撰」と記載されている。以前の国史と大きく違う点は、複数の天皇記ではなく仁明天皇の単独事歴が記述されていることである。いわゆる永年の天皇親政体制から摂関政治への移行期の詳細が明記された正史である。仁明天皇時代は、まさしく「平安時代」にふさわしく、事変が少ない平和な時代であったので政治関連の記事は少ない。

 なお、現存する書写本は、前述した「六國史」の項目分類である「類聚国史」から本文を復元しているのが特徴である。また、白河殿と呼ばれた藤原良房は、幼少から恵まれた環境のもとで力量を磨いたようで、大伴氏・紀氏を排除して、皇族以外の臣下で初めての摂政に位し、法制の整備に力を注いだ「貞観格式」の制定は有名であった。


【文徳實録】

 「文徳實録(日本文徳天皇實録)」は、清和天皇の命で藤原基経(ふじわらのもとつね・承和三年・836~寛平三年・891)等が編纂撰者となり平安時代の貞観十三年(871年)に完成した正史である。摂政関白太政大臣の藤原基経は、前述の藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷における実権を握った。また、白河大臣と呼ばれた藤原基経は、日本の歴史上初めて、皇族以外で関白に就任した公卿である。

 「文徳實録」は、編年体の全十巻で構成され、「續日本後紀」と同様に文徳天皇の単独事歴が記述された一代記である。序文は「学問の神様」と呼ばれている菅原道真(すがわらのみちざね・承和十二年・845~延喜三年・903)が執筆したと伝えられている。中国の一代記の史書は「實録」と表記されているので、日本の場合も模範にして「實録」と標題したようである。内容を吟味すると、政治関係の記事は少なく、下級貴族の事柄を多く掲載している。


【三代實録】

 「三代實録(日本三代實録)」は、宇多天皇の命で藤原時平(ふじわらのときひら・貞観十三年・871~延喜九年・909)・菅原道真(すがわらのみちざね・承和十二年・845~延喜三年・903)等が編纂撰者となり、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の三代の事歴を記録した。藤原時平は、藤原基経の長男として生まれ、菅原道真を大宰府に左遷して太政大臣となり絶大な権力を掌握したが、若年で死去した。

 「三代實録」は、宇多天皇の命で編纂を始めたが宇多天皇が譲位した後に中断した。醍醐天皇により編纂作業を再開するが、実質的な編纂者は菅原道真・大蔵善行と推測されており、年中行事など豊富な資料を掲載して、記述の精度は「六國史」の中では一番であるとの定評がある。菅原道真の左遷問題が発生したため紆余曲折を経て、編年体の全五十巻で編成され、延喜元年(901年)に完成した。


【「六國史」以後の史書について】

 「六國史」以後の史書の編纂は、武士の台頭などで律令体制が崩壊して、纏まった史書は存在していないようである。王政復古した明治時代になって史書編纂は計画されたようであるが実現せず、「大日本史料」という名称で記録が残されている。「大日本史料」は、宇多天皇から後一条天皇までの史料は、前述した江戸時代の塙保己一(はなわほきいち・延享三年・1746~文政四年・1821)が収集整理した史料を基にして編纂され、対象は江戸時代までを編纂方針として、明治三十四年(1901年)から随時発刊されている。

【参考】 東京大学史料編纂所




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十四年(2012年)六月作成