『本化高祖年譜』(ほんげこうそねんぷ)

    


タイトル:『本化高祖年譜』(ほんげこうそねんぷ)

著者:健立日諦・玄得日耆

出版書写事項:昭和期

版心:弘化四年(1847年)版

形態:全一冊 和装大本(B5版)

目録番号:soka-0020002



本化高祖年譜』の解説

 『本化高祖年譜』は、常州沙門の健立日諦・玄得日耆の著で安永八年(1779年)に成立し、序文を水戸城北沙門の日竟が担当している。弘化四年(1847年)再刊本を平楽寺村上勘兵衛から英園日英(西備妙顕寺)が翻刻し、序文を身延の日柱が担当している。

 今回紹介する『本化高祖年譜』は、安永八年(1779年)に日諦・日耆によって平楽寺村上勘兵衛が版本したものを、明治になって平楽寺村上勘兵衛が廃業し、大正二年(1912年)に村上書店の井上治作に店を譲渡した「平楽寺書店」が再刊行したもので、誤字脱字が多い漢文書籍でもある。

 『元祖化導記』はレ点混じりの漢文で印刷されているが、江戸時代の高僧伝などの年譜は格式を重んじる漢文で書かれているのが多いこともあり、『本化高祖年譜』もその精神を踏襲して漢文の白文で書かれている日蓮大聖人の御事績を年齢順に列記した年譜である。

 日諦・日耆は、『本化高祖年譜』の会本として一つにした『高祖年譜攷異』も著述し、遺文をもとに大聖人の伝記を構成し、『録内啓蒙』『朝師見聞』などの注釈書や『本化別頭仏祖統紀』『高祖本紀』などの伝記を並べており、『史記』『高僧伝』『吾妻鏡』『王代一覧』などからも考証している。

 『元祖化導記』と『本化高祖年譜』との大きな違いに、日蓮大聖人の来訪記述がある。室町時代末期に成立した『元祖化導記』までは、身延山の入山と下山以外の来訪記述は見当たらないが、江戸期に著述された『日蓮大聖人御伝記』や『本化高祖年譜』では来訪伝説が記述されている。

 『日蓮大聖人御伝記』では、謡曲「鵜飼」の題材にもなった甲斐国石和の伝説が有名であるが、『本化高祖年譜』の序には「水戸の僧である日諦・日耆が大聖人の息憩の地を歩き、古刹に旧記を探り、古老に遺聞を尋ねた」と記述した。

 また、『本化高祖年譜』の文永六年の条には、大聖人が富士山に法華経を埋経した伝承が記載されて、「大士甲州吉田に如く、手ら経王全帙を筆して富嶽の半嶺に埋み、以て後世流布の苗根と為す、世々経嶽と名く」とある。

 蒙古国使者の来朝に国全体が騒然としている時、大聖人自ら山梨の富士吉田に行き法華経全巻を書写し富士山に埋経して国家安泰を祈念し、その地を後世の拠点「経ヶ嶽」と名づけたとある。

 同じ内容が『甲斐国志』にもあり、「五合五勺、道ヨリ南ノ巌崛ヲ経カ嶽ト云。相伝フ。昔僧日蓮ノ法華経ヲ読誦セシ地ナリトゾ。堂一宇アリ。其内ニ銅柱ニ題目ヲ鋳付タリ。但日蓮参籠ノ地ハ少シク上ニ巌穴アリ、今姥ヶ懐ト称ス。是日蓮風雨ヲ凌ギシ所ナリ。其時、塩谷平内左衛門ガ家ニ宿シ彼案内ニテ登山シ此処ヲ執行ノ地ト定メケルトゾ」と、大聖人は塩谷平内左衛門の小庵で法華経を書写し、塩谷平内左衛門の案内で姥ヶ懐と呼ばれた巌穴で参籠したとある。

 私こと樹冠人は、このように新たに伝記に加味された在地の資料や伝承が印刷された『日蓮大聖人御伝記』や『本化高祖年譜』を魁として、各地で語られて伝説が捏造されて過度な着色が行われた結果、特に、江戸期から明治期にかけて、歪んだ日蓮伝承が形成されてしまったのではないかと思っている。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   令和二年(2020年)七月作成