『法華立正安國論』(ほっけりっしょうあんこくろん)

    


タイトル:『法華立正安國論』(ほっけりっしょうあんこくろん)

著者:日蓮大聖人

編纂者:扶桑真人(本爺彦右衛門)

出版書写事項:寶暦十二年(1762年)十一月冬至 華陽堂板
       天保四年(1883年)補刻

形態:全一冊 和装中本(A5版)

賣弘所:江戸神田鍛冶町貮丁目
     薬種店
     華陽堂 華房兵蔵
    江戸京橋銀坐町貮丁目
     太雅堂 橘 俊輔
    大坂心齋橋通安土町
     松根堂 加賀屋善藏
    京都寺町通四條上ル
     平楽寺 村上勘兵衛
    江戸神田鍛冶町貮丁目
     弘文閣 北嶋順四郎
    江戸日本橋通貮丁目
     柏葉堂 野田七兵衛

目録番号:soka-0010006



法華立正安國論』の解説

 『法華立正安國論』(ほっけりっしょうあんこくろん)は、扶桑真人・本爺彦右衛門が江戸時代の寶暦十二年(1762年)に平易なひらがな交じりの文章で編纂し出版した書籍である。今回紹介する書籍は250余年前の寶暦十二年(1762年)に本爺彦右衛門により活字化され、180余年前の天保四年(1833年)に華陽堂板を補刻して出版した貴重な書籍である。

 編纂者の扶桑真人・本爺彦右衛門は、江戸時代の在家門徒で、江戸神田鍛冶町の薬種店で書林を営んだ華陽堂の創設者である。彦右衛門は、今回紹介する『立正安国論』以外にも『日蓮大聖人御一代實記』『禅天魔真言亡國律國賊之論』などを編纂出版し、『御書五大部』や『祈祷抄』『如説修行抄』などの日蓮大聖人御書遺文も編纂出版した。これらの書籍は庶民でも読むことが出来る平易なひらがなで編纂され、まさしく、「ひらがな御書」の源流であり先駆けを飾った御書群でもある。

 『法華立正安國論』は、まず最初に扶桑真人謹序と二丁ほどの序文を配し、次に立正安國論の本文がひらがな交じりで編纂され、その最後には五丁ほどの問答形式の「論中或問」が扶桑真人述として配備されている。そして、その販売については、江戸・大坂・京都の三都の書肆が参画し、『十一通御書』でも紹介した書林の平楽寺村上勘兵衛も賣弘所として参画したことも付け加えておく。

 『御書』の出版事情については、江戸期の日興門流からの出版は要法寺版の『御義口伝』のみで、『日蓮大聖人御書全集』の「発刊の辞」にもある通り、「御書全集が皆無に近い現状であり、やむを得ず巷間流布されている御書に拠っていた」のが実情で、日興門流の門徒が『御書』を一般的に読むことが出来るまでには昭和期の創価学会が関与した『日蓮大聖人御書全集』等が出版されるまで待たなければならなかった。

 実は、昭和期の同時期に発刊され日興門流の日亨上人が関わった『日蓮大聖人御書全集』と『昭和定本日蓮聖人遺文』には、同じ源流が存在していた。それは、智英日明が収集書写した『新撰祖書』を底本として小川泰堂(文化十一年・1814~明治十一年・1878)が編纂した『高祖遺文録』と、これをさらに発展させ完成度の高い御書として発刊させた加藤文雅編・霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』である。(小林正博『日蓮文章の研究』より)

 日蓮大聖人の御遺文である「御書」の編纂歴史の概歴を眺めてみると、正筆の「漢文体」は中世までは受容されたが、門徒の広がりと相まって近世江戸期には「レ点交じりの漢文体」へ変化し、江戸末期には「レ点交じりの漢文体」と並行して、庶民でも理解できる「ひらがな交じり体」が流布し、明治期・大正期には「カタカナ交じり体」に変化し、現代では『日蓮大聖人御書全集』(創価学会版)のように「口語体」が標準になっている。

 例えば、『立正安国論』の場合を辿ってみると、次のように変化して来たことが読み取れる。

 文応元年(1260年)七月十六日にご執筆された正筆の冒頭の一節では、「旅客来嘆曰自近年至近日天變地夭飢饉疫癘遍満天下廣迸地上牛馬斃巷骸骨充路招死之輩既超大半不悲之族敢无一人」と、全文が漢文の「白文体」で認められている。

 『日蓮大聖人御書五大部』で紹介した江戸期の宝暦修補本などでも、「旅客来嘆曰自近年至近日天變地夭飢饉疫癘遍満天下廣迸地上牛馬斃巷骸骨充路招死之輩既超大半不悲之族敢無一人」と、「白文体」が多く、漢文を理解した僧侶や一部の門徒など限定された知識階層に受容された。

 今回紹介した江戸幕末期の『法華立正安國論』では、「旅客来て嘆て曰く近年より近日に至り天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満廣く地上に迸る牛馬巷にたをれ骸骨路にみてり死を招くの輩既に大半にこへ是をかなしまざるの族敢て一人もなし」と、庶民の門徒でも読みやすい「ひらがな交じり体」と変化して流布された。

 明治維新を越えた明治期には欧化政策による印刷技術の向上もあり、「御書」に加えて「御伝記」など膨大な量が出版された。小川泰堂編纂の『高祖遺文録』では正筆と広本が掲載されているが、両方とも「レ点交じりの漢文体」に変化した。『高祖遺文録』は江戸期の流れを踏襲した和装本であるが、冊数も多く高価であることも原因してか、まだ限定された知識階層にしか受容されなかった。

 また、小川泰堂編纂の『高祖遺文録』を底本とした加藤文雅編・霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』など明治期・大正期の出版物全般の傾向でもあるが、「旅客来ツテ嘆イテ曰ハク、近年ヨリ近日ニ至ルマデ、天変地夭飢饉疫癘、遍ク天下ニ満チ廣ク地上ニ迸ル、牛馬巷ニ斃レ骸骨路ニ充テリ、死ヲ招クノ輩既ニ大半ニ超エ、之ヲ悲マザル族敢テ一人モ无シ」と、「レ点交じりの漢文体」が「カタカナ交じり体」に変化した。加藤文雅編・霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』は『高祖遺文録』の「縮刷版」で頁数も多いが、一冊にまとめられたものでもあるので使い勝手もよく広く流布した。

 そして、現在活用されている『日蓮大聖人御書全集』(創価学会版)においては、「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し」と、より読みやすくなり、一般庶民でも理解できるように「口語体」が標準となり、日蓮大聖人の真意に近づくことができるように努力されていることが窺われる。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十八年(2016年)一月作成