『高祖遺文録』(こうそいぶんろく)

    



上部写真
タイトル:『高祖遺文録』(こうそいぶんろく)
出版書写事項:無刊記
著者:日蓮大聖人
形態:全一冊 和装大本(B5版)
纂輯:沙門 日明
訂正:泰堂小川孝栄
貲刻:玄淵藤縣義徳

下部写真
タイトル:『類纂高祖遺文録』(るいさんこうそいぶんろく)
出版書写事項:大正八年(1919年)六月十日 第十版発行
纂訂者:長瀧智大・山川智應
形態:全一冊 (B6版)
発行人:田中巴之助(田中智學)
印刷者:鷲見九市
印刷所:株式会社秀英舎工場
発行所:国柱産業株式会社書籍部

目録番号:soka-0010007



高祖遺文録』の解説

 『高祖遺文録』は、智英日明が収集書写した『新撰祖書』を底本として、江戸時代後期から明治時代にかけて泰堂小川孝栄(文化十一年・1814~明治十一年・1878)が編纂訂正した日蓮大聖人の遺文集である。編纂訂正に挑戦した小川泰堂は相模(現在の神奈川県藤沢)に医師の子として生まれ医業を継いだ。そして、日蓮大聖人遺文との出会いを縁として在家の日蓮大聖人研究者となった。また、泰堂は『高祖遺文録』以外にも『日蓮大士真実伝』(全五巻)の著作刊行も行った。

 中世から近世にかけて日蓮大聖人の遺文の写本や刊本されたものには、第一次集成本である『録内御書』や『録内御書』から漏れた遺文を集成した第二次集成本である『録外御書』などが存在したが、『高祖遺文録』は、『録内御書』と『録外御書』の両方をほぼ網羅し、「録内外」の対照表と真蹟の所在を明記して遺文の各編を年代別に編年体で配列した遺文集である。そして、当時現存していた真蹟遺文と校合するために小川泰堂自ら各所を訪問している。

 『録内御書』については、日蓮大聖人滅後の一周忌に六老僧によって収集された40巻148通の遺文を集成した御書を『録内御書』と呼ぶ伝承があったが、現在では、この一周忌集成説は完全に否定され、「中山法華経寺系の学僧によって集成された」「身延山久遠寺の学僧によって集成された」などの諸説があり、成立年・編纂者等詳細は定かではない。

 『録内御書』の版本については、江戸時代の元和八年(1622年)の本圀寺版が最初といわれ、その後、寛永十九年(1642年)の中島四郎左衛門版、同二十年の荘右衛門版、寛文九年(1669年)の武村市兵衛・村上勘兵衛・八尾甚四郎・山本平左衛門の四人の重刊本、宝暦六年(1756年)の村上勘兵衛の重刻版などが存在する。

 『録外御書』とは、目録外というべきもので、25巻259通を収めた御書集である。一如日重が編纂した本満寺録外、中正日護の三宝寺録外、妙蓮寺日感の秘蔵録外などの写本と、版本については、寛文二年(1662年)の山屋次右衛門が初めて開版し、武村市兵衛の改刻したものが存在している。

 『高祖遺文録』には印刷様式が異なる二種類の刊本が存在している。明治十三年(1880年)に刊行された全三十巻の和装木版本(通称大本)と明治十八年(1885年)に刊行された全二十巻の和装銅活字本(通称小本)の二種類であるが、今回紹介するのは、前者の和装大本である。残念なことに樹冠人は巻之十二のみ所蔵しているので、それを紹介することにした。

 『高祖遺文録』は明治期以降の遺文集編纂事業に大きな影響を与えているが、例えば、『法華立正安国論』でも紹介したように、昭和期の同時期に発刊され日興門流の日亨上人が関わった『日蓮大聖人御書全集』と『昭和定本日蓮聖人遺文』には、同じ源流が存在していた。それは、智英日明が収集書写した『新撰祖書』を底本として小川泰堂(文化十一年・1814~明治十一年・1878)が編纂した『高祖遺文録』と、これをさらに発展させ完成度の高い御書として発刊させた加藤文雅編・霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』である。(小林正博『日蓮文章の研究』より)

 今回紹介する上部写真の明治十三年(1880年)十二月に出版された『高祖遺文録』の巻之十二には、最蓮房日浄に与えられた『生死一大事血脈鈔』と『艸木成佛口訣(草木成仏口訣)』、そして『開目鈔』が収録されている。なお、『開目鈔』と『報恩鈔』の正筆は明治八年(1875年)に身延山久遠寺の火災で焼失しているので、今回紹介する書籍は現存していた時代に筆写校合された正筆に近い状態で読むことができる貴重な書籍でもある。

 最蓮房については、京都出身の出家者で、日蓮大聖人が佐渡流罪中に帰伏した弟子であることは判明しているが、大聖人は最蓮房を指して「貴辺」と呼ばれているのみで、詳細は判明していない。今回紹介する『生死一大事血脈鈔』と『艸木成佛口訣(草木成仏口訣)』は、大聖人が五十一歳の御時、佐渡の塚原において同時期に認められた御消息である。なお、最蓮房はこれら二編の御書以外にも『当体義抄』『諸法実相抄』『立正観抄』『十八円満抄』など重要な御書や『最蓮房御返事』などと名の付く多くの御書を賜わっている。

 『生死一大事血脈鈔』では、「而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ」と述べられ、最蓮房は入信して大聖人に付き随っていたために難にあったことが窺われる。また、「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ」とも仰せで、最蓮房の求道心は厚く、大聖人はいくつもの重要な法門を御教示され、大聖人と最蓮房との深い師弟関係が窺われる。

 『艸木成佛口訣(草木成仏口訣)』には、「草木成仏とは死者の成仏のことをいうのである」と述べられている。つまり、有情の人身も、死後は非情の存在となる。その非情の成仏を説くのが「草木成仏」であるので、つまり、「草木成仏」は死んだ人が成仏することを説いているのである。そして、本抄で明かされた「草木成仏」の深義について、「世間の人、また他宗の人々は知らない。それは、妙法蓮華経という仏法の根本義を知らないからである」と仰せられ、「敢て忘失する事なかれ」「この妙法蓮華経の御本尊にこそ、草木成仏、また死人の成仏の根源があることを忘れてはならない」とも訓戒されている。

 『開目抄』は、『日蓮大聖人御書五大部』で紹介したように、文永九年(1272年)二月、日蓮大聖人が五十一歳の御時、佐渡御配流中に塚原で御述作され、門下一同に与えられた書である。『開目抄』は上下二巻で構成され、『観心本尊抄』が「法本尊開顕の書」であるのに対して、『開目抄』は「人本尊開顕の書」であり、教行証に配すると一代の諸経の勝劣浅深を判じ五段の教相を説いているので教の重に配される。

 日蓮大聖人が文永八年九月十二日に竜の口の法難、ついで同十月に佐渡配流になると、弟子檀那に対しても迫害が襲いかかったために、ある者は耐えず、ある者は諸天の加護なきを疑い、ある者は大聖人が法難に遭われたことに不信を起こすなど、退転する者が続出した。そのため大聖人は門下の疑いを解き、かつ末法の御本仏であることを宣言なさるため本抄を認められたのである。文永八年十一月から起草され、翌文永九年二月に完結されて、有縁の門下の中でも特に四条金吾(寛喜元年・1229~永仁四年・1296)に与えられた。

 『開目抄』は、末法下種の人本尊をあらわすために、初めに「主師親の三徳」を尊敬すべきを示し、次に儒外の三徳を挙げ、次に内典の三徳を釈して、一代聖教の浅深を判じて熟脱の三徳を説明されている。次に大聖人こそ真実の法華経の行者であることを明かして下種の三徳をあらわし、最後に「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」と本抄の元意を結ばれ、日蓮大聖人御自身が寿量文底の主師親三徳を具えた末法の御本仏であることを明らかにされている。また、本抄で一代諸経の浅深を判ずるのに五段の教相、すなわち「五重相対」を説かれている。

 なお、この書籍の最後には「泰堂云予延山詣拜ノ時明治五年壬申四月九日山主日建上人寶庫ヲ開キ守藏ノ僧員十七名ノ封緘ヲ解テ高祖ノ眞蹟ヲ拜セシム巻本九十六軸綴本三十六冊自由ニ展視スル事ヲ得タリ此開目鈔ハ最モ其首タル書ニシテ分テ四軸トセリ兼テ古版不審ナル處ハ此時ニ照鑑シ全部ハ中古遠乾二師此ヲ親寫上木アリシ百部摺本ノ内ノ一本ヲ得テ謹テ校定セリ」と真蹟遺文と校合した経緯が詳細されている。


 下部写真の『類纂高祖遺文録』は、前述の『高祖遺文録』を底本として「主要篇」「宗義篇」「事績篇」「信行篇」「勧誡篇」「教解篇」「對判篇」「附雑篇」「参照補遺」と分類して編纂された御書全集である。この書籍には「新刻高祖遺文引」が掲載され、『録内御書・録外御書』と『高祖遺文録』と『縮刷遺文』と呼ばれた霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』との対照目録が掲載された御書全集でもある。

 また、この書籍には京都の本圀寺に収蔵されている日朗に与えられた『立正安国論』広本と呼ばれている御書が掲載されているが、世に流伝されている御書と比べると数百言が加倍されている『立正安国論』で、小川泰堂によれば安国論の原本であると解説している。

 発行人の田中巴之助こと田中智學(文久元年・1861~昭和十六年・1939)は、昭和時代初期に活躍した宗教家で、日蓮宗に入信したが宗学に疑問を持って還俗し宗門改革を目指した。智學は日本国体学の創始者として日蓮主義運動を標榜して国柱会を結成した。小菅丹治・竹内久一・坪内逍遥・高山樗牛・田中光顕・姉崎正治・北原白秋・宮澤賢治・石原莞爾・武見太郎など明治・大正・昭和時代に活躍した著名人に影響を与えた。

 纂訂者で田中智學の弟子である山川智應(明治十二年・1879~昭和三十一年・1956)は、大坂出身の日蓮宗僧侶で仏教学者である。田中智學に弟子入りして日蓮主義運動に参加したが、智學の死後に国柱会から破門され本化妙宗聯盟を結成した。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十八年(2016年)二月作成