『日蓮大聖人御傳記(解読・解説)』(にちれんだいしょうにんごでんき)

    



タイトル:『日蓮大聖人御傳記(解読・解説)』(にちれんだいしょうにんごでんき)

出版書写事項:平成二十四年(2012年)初版発行

解読・解説:小林正博

添付冊子:延宝九年刊『日蓮大聖人御伝記』写本入手記(岡元錬城)

発行所:USS出版

印刷所:モリモト印刷株式会社

形態:全一冊 (A5版)

目録番号:soka-0010009



日蓮大聖人御傳記(解読・解説)』の解説

 『日蓮大聖人御傳記』は、江戸時代初期の延宝九年(1681年)三月に日蓮大聖人四百年遠忌を記念して刊行され、京都書肆の「中村五兵衛」が開板した絵入りの日蓮大聖人(貞応元年・1222~弘安五年・1282)の御一代記である。この書籍は江戸期の延宝九年(1681年)と寛政七年(1795年)と文化十三年(1816年)と天保十四年(1843年)の四度も版を重ねて、日蓮大聖人門下の間では流布し多くの読者を獲得したベストセラーでもあった。

 今回紹介する書籍は、東洋哲学研究所の小林正博氏が延宝九年(1681年)版の解読・解説に挑戦し、全貌が鮮明となり、問題点が提起されて掲載情報の解明が進んだ書籍である。

 小林正博(昭和二十六年・1951~)氏は、学習院大学法学部・立正大学仏教学部卒、立正大学大学院博士後期課程単位取得中退、文学博士で、生涯学習インストラクター古文書一級資格を取得し博物館学芸員でもあり、東洋哲学研究所の主任研究員でもある。主な著書に『日本の仏教の歩み』『日蓮の真実』『日蓮の説いた故事・説話』などがある。

 また、論文としては学位論文の『日蓮遺文の基礎的研究 文献学と古文書学からのアプローチ』の他、『日蓮事跡初見年表』『日蓮文書の研究』『初期日蓮教団の門下群像』『江戸期富士門流法難の背景』『寛政法難と大石寺』『日蓮に見る安穏思想』『法主絶対論の形成とその批判』『日蓮真蹟の解読上の問題点』『日蓮の真蹟:その解読をめぐって』『日蓮文書の研究:録外御書をめぐって』などがある。

 小林氏と『日蓮大聖人御傳記』との出会いは、静岡の富士美術館所蔵の古文書調査からであった。そして、先行して刊行されていた行学日朝(応永二十九年・1422~明応九年・1500)の『元祖化導記』や円明日澄(永享十二年・1440~永正七年・1510)の『日蓮大聖人註画讃』や證誠院日修(天文元年・1532~文禄三年・1594)の『元祖蓮公薩埵略記』の三書にない記述がふんだんに展開されていたことが一因となり、解読作業を開始したのである。

 作者についての詳細は不明であるが、本文の十巻分には日興門流からの豊富な情報が盛り込まれ、「十巻伝」(国字伝とも)との異称を持つが、巻十には「身延之巻」と巻十一には日朗(寛元三年・1245~元応二年・1320)の甥で弟子にあたる日像(文永六年・1269~興国三年・康永元年・1342)の「日像聖人御伝記」と別立てして一巻分を補足しているなど、実質の『日蓮大聖人御傳記』は九巻までであり、門流を超えて調査されたと思わせる形跡が随所に発見できる内容であったのである。

 特に、論文『「日蓮大聖人御伝記」を読む』において「これほどの具体的な記述は、近世以前の文章でお目にかかったことがなかっただけに、この書が一体何者なのか、深い興味を懐き、第一冊の解読を終えたところで、本書についての論考を本紀要に掲載する決意をした次第である。」と、第八巻の第十五の「本門の戒壇板本尊の事」と第十六の「聖人の御影を日法つくらるゝ事」の二点を紹介した。

【本門の戒壇板本尊の事】

「板本尊といへるハ富士の大石寺の什物なり、たけ六尺ばかり、広さ弐尺七八寸、あつさ一寸七八ぶの板なり、木は何ともしられず、黒ぬりにしてほりたり、文字の内にハ金ぱくを入られたり、御曼陀羅の下に二字づゝならべて横に本門戒壇施主弥四郎国重と、是も聖人御自筆にてあそばせり、此板またハ黒ぬりなど、かの弥四郎国重寄進し奉るにや、いぶかし、伝にいはく、末代にいたりて本門かいだんの勅定を申うけ富士山に戒壇堂をきつくへし、その用意としてかねてあそばしをかれし也、御弟子日法細工の上手なれハ是をほらさしめ給へり、また日興への御消息にいはく、国主被立此者、富士山本門戒壇可被建立也、可待時而已、事戒法謂是也云云」

【聖人の御影を日法つくらるゝ事】

「弘安二年の富士戒壇の板本尊をきさまるゝ折節、日法末代の見すきかざる人のために聖人の御影を(以下省略)」

 また、「この書籍が百八十四科もの長編になっているのは、当時までの公になっていない伝承を多く紹介しているからで、特に、次に紹介する初見の伝承内容は後発の日蓮大聖人伝に取り入れられていることが判明した。なお、これらの伝承は著者がゆかりの地を歩き現地に実際に立って見聞してきた情報をもとに書いたことが窺われ、単純に荒唐無稽な作り話と葬り去るべきではない。」と説明している。

巻一第十三科「比叡山花芳谷の石塔」、巻一第二十四科「富木常忍入信の経緯」
巻二第四科「京佐女牛八幡の話」、巻二第五科「伊勢間の山常明寺の石塔」
巻二第六科「尾張熱田社の法花堂」、巻四第十五科「子やすのまんだら」
巻四第十七科「覚田の石題目」、巻四第十九科「遠藤治部左衛門の受法」
巻四第二十科「松崎の石題目」、巻四第二十科「松崎の春日大明神の御盃」
巻五第十八科「厳島神社の明神、漫荼羅」、巻六第三科「高田毘沙門天出迎えの話」
巻八第三科「村岡民部大輔と妻妙円の話」、巻八第五科「身延七面明神と花瓶の伝承」
巻八第五科「身延での日蓮自筆画」、巻九第七科「甲斐石和川の石経」

 最終的に、「全体を通読し、日興門流の人間でなければ書けない記述があることから情報源は大石寺にあるのではないかと類推して、本書と同時代に大石寺十七世の日精(慶長五年・1600~天和三年・1683)が著した『日蓮聖人年譜』に当たってみたら、予想は的中して底本にして書いたことが判明した。」と結論づけたのである。

 そして、小林氏が解読作業を開始した四年も前に『日蓮大聖人御傳記』に関する論文を認めていた北海道の岡元錬城氏の文献学的考察を知ることとなった。まさに、「幻の先師の学徳を讃ず」との副題が付いた添付冊子の延宝九年刊『日蓮大聖人御伝記』写本入手記には、精細な分析が行われているが注目すべき点を少し紹介しておく。

 まず、岡元錬城氏は不明である本書の作者の出身地については「おそらく京都であろう」との推測を提示し、「いくつもの新出事項や検討・検証を要請する事項を含め二百を超える条項数を掲げての大冊の出現、それが本書であった。」と述べ、特に、巻五第十七章の「聖人の御判の事」に触れ、聖人の花押についての説明で形容を模した図版も掲げ、「しげくて筆紙につくしがたし」と言うが、その説明は専門的で、「江戸期の祖伝で花押に触れるのは乏少であろう。」と述べている。

 また、『日蓮大聖人御傳記』が依った底本に関して、小林氏が江戸時代初期の日興門流の日精の著『日蓮聖人年譜』であるとの指摘については、巻八所載の熱原法難関係について、日興門流の日享上人の『富士宗学要集』には他門流のものとしての『御伝記』に「是亦精師御年譜等の転写にして前の照見記との前後を知らず何れにせよ精師の史伝の影響の大なるに驚く」とあり、また、日寛上人の『六巻抄』には日法の御影造立記述を「蓮師御伝記八ニ云」と引載する。「蓮師御伝記」とは「本書のことで八巻十六章の引用である。」と述べている。

 今回は小林氏が翻刻した延宝九年版『日蓮大聖人御傳記』から抽出して解題に提示し、問題提起した次の九項目を掲載することにする。なお、説明文を追記したが論文『「日蓮大聖人御伝記」を読む』から転記した。

①父の名を三国太夫、母の名を梅菊とする「産湯相承事」の説を採用(巻一、第一科)

 「御伝記」では父を三国太夫、母の出自を畠山氏とし、その名は梅菊女とすることは、日蓮の直弟子の一人日興筆に仮託される「産湯相承事」(初見は大石寺系の左京日教の「類聚翰集私」、一四八八年成立)によっていることは明らかである。当時の通説は父の名は貫名重忠、母の出自は清原氏というのが主流であった。

②出家年齢、十六歳説を立てる(巻一、第三科)

 それまでは十八歳説が主流であった。現在では十六歳説が有力になっている。

③「不動愛染感見記」(保田妙本寺現存)の公開(巻一、第二十三科)

 「不動愛染感見記」は現在、千葉の保田妙本寺に所蔵されているが、ほとんどすべての日蓮文書を収めた『霊艮閣版 日蓮聖人遺文』(一九〇四年出版)でさえ漏れ、ようやく第二次世界大戦後、『昭和定本日蓮聖人遺文』(一九五二年)で公開された日蓮遺文である。なお古文献では要法寺日辰の『祖師伝』(永禄二年・一五五九年・当時未刊)にその全文が初めて記される。

④「伯耆公御房御消息」(富士大石寺現存)の公開(巻二、第十二科)

 「伯耆公御房御消息」は、日蓮が日朗に代筆させ日興に宛てた文書で、『本満寺録外』(一五九五年)『三宝寺録外』(一五八三年ごろ)に収められているがいずれも未刊である。大石寺に現存し、関係者しか知り得ない文書であった。

⑤和泉式部と能因法師の和歌を引用(巻三、第六科)

 和泉式部と能因法師の和歌は真偽不詳だが、公表したのは本書が最初である。

⑥熱原の法難についての詳しい記述(巻八、第十三から十八科)

 日興門流以外では、日興が中心となって対応した熱原の法難を取り上げることはなかったが、本書ではかなり詳細に記述している。

⑦弘安二年の本門の戒壇板本尊に具体的に言及(巻八、第十五科)

 弘安二年の本門の戒壇板本尊については、前述したが、日興門流の大石寺秘蔵の本尊で、大石寺の古文献でさえ、これほど具体的な記述はめずらしい。その大きさ、脇書に至るまで、公表したのは初めてである。

⑧「御遺物配分事」(日興正本・池上本門寺現存)の公開(巻九、第十八科)

 「御遺物配分事」を公表した最初であるが、「御所持仏教事」(日興正筆、大石寺蔵)も同時に引用しており、この二書には矛盾がある。すなわち釈迦立像は墓所のかたわらに立て置くべきだと「御所持仏教事」にあるが、「御遺物配分事」では釈迦立像は日朗がもらっている。また、日蓮が書き込みをし所持していた「註法華経」は「御所持仏教事」では墓所寺に籠め置くようにとあるが、「御遺物配分事」では日昭がもらっている。本書で、矛盾する両書を引用するのは、本書の筆者の軽率さを露呈していると言わざるを得ない。

⑨「大聖人和讃」を掲載(巻九、第二十一科)
 「大聖人和讃」の公表は初めてである。

 さらに、『日蓮大聖人御傳記』と『日蓮聖人年譜』の密接な関係を示す「巻一第廿五 京鎌倉怪異の事 付聖人最明寺殿へ言上の事」と「第廿六 正嘉元年地震の事」を提示し、そして、『日蓮大聖人御傳記』が『日蓮聖人年譜』を底本にしている決定的箇所を探り当て提示した。

 それは、第三巻第七の「行敏より聖人へ状の事」における「行敏状」の引用である。この書状は文永八年(1271年)に僧・行敏が日蓮大聖人に法論を挑むために記した私信状で、大聖人が筆写されたものが鷲津の本興寺に現存する十行の断簡である。

 この「行敏状」については、『日蓮大聖人御書全集』(創価学会版)では、【行敏初度の難状】として全文が掲載されているので、参考までに口語体の全文を掲載しておく。

【行敏初度の難状】

「未だ見参に入らずと雖も事の次を以て申し承るは常の習に候か、抑風聞の如くんば所立の義尤も以て不審なり、法華の前に説ける一切の諸経は皆是妄語にして出離の法に非ずと是一、大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二、念仏は無間地獄の業為と是三、禅宗は天魔の説・若し依つて行ずる者は悪見を増長すと是四、事若し実ならば仏法の怨敵なり、仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す、将又其の義無くんば争でか悪名を痛ませられざらんや、是非に付き委く示し賜わる可きなり、恐恐謹言。」
 七月八日 僧行敏 花押 日蓮阿闍梨御房

 まず、真蹟と『日蓮大聖人御傳記』を比較すると、その違いは「一部誤記と日付」であるが、筆者が直接真蹟を見ていれば起こりようのない相違であることを提示した。

 そして、『日蓮大聖人御傳記』が刊行された延宝九年(1681年)の時点では、この「行敏状」を収録した刊本は、身延山久遠寺十一世の日朝著の『元祖化導記』しかなく、もう一つ、刊行はされなかったが、身延山久遠寺二十世の日重がまとめた『本満寺録外』にも「行敏状」が収められている。本書の筆者はこの両書にも依っていないことが判明した。

 さらに、『日蓮大聖人御傳記』と『日蓮聖人年譜』の該当箇所を列記して、一字一句に至るまで完全に一致していることを提示し、「書誌学観点からも『日蓮大聖人御傳記』は『日蓮聖人年譜』を盗用したことは明白である。」と結論したのである。


 最後に、「日蓮大聖人の出家年齢と悟達時期」について、私こと樹冠人の意見を述べておく。

 『日蓮大聖人御傳記』では日蓮大聖人の出家年齢十六歳説を採用しているが、真蹟と思われる現存御書においては、以下のように表現されていることから、樹冠人としては「日蓮大聖人は十二歳で出家し、十六歳で悟達された。」と考えている次第である。

「日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ、殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで此の十六七年の間・禅宗と念仏宗とを難ずる故に禅宗・念仏宗の学者・蜂の如く起り雲の如く集る、是をつむる事・一言二言には過ぎず結句は天台・真言等の学者・自宗の廃立を習ひ失いて我が心と他宗に同じ在家の信をなせる事なれば彼の邪見の宗を扶けんが為に天台・真言は念仏宗・禅宗に等しと料簡しなして日蓮を破するなり、此れは日蓮を破する様なれども我と天台・真言等を失ふ者なるべし能く能く恥ずべき事なり。」(善無畏三蔵抄)

「日蓮が度度・殺害せられんとし並びに二度まで流罪せられ頚を刎られんとせし事は別に世間の失に候はず、生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(清澄寺大衆中)

「予はかつしろしめされて候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし、其の後先ず浄土宗・禅宗をきく・其の後叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども・我が身の不審はれがたき上・本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず・いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし」(破良観等御書)

 この点に関連して、「日蓮大聖人の悟達時期」について、創価学会第二代会長の戸田城聖先生は『清澄寺大衆中』の講義の中で、次のように展開されている。

「『生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき』ここが問題です。これは仏法上の大問題です。私は大聖人様が、どこで南無妙法蓮華経を御悟りあそばされたかといろいろ考えてみました。ふつうならば比叡山から帰り、三十二歳の時、四月二十八日に清澄寺で初めて南無妙法蓮華経とお唱えになった時ではないかと。あるいは比叡山に登られたその時ではないかと。こういうふうにだれしも考える。仏教学者は、比叡山で勉強して、そうして南無妙法蓮華経の極理をそこでおそわってきたのだろうぐらいに、みんな、ふつうはそう考えています。だが私はそうは考えないのです。どこで大聖人様が、妙法蓮華経の極理を体得せられたかということを、さんざん考えてみたのです。どうしても、この虚空蔵菩薩の御前でなければとしか思えないのです。御年十六の時です。私などは、仏法のことを少しわかったのが四十いくつ。仏様は御年十六の時に、虚空蔵菩薩の御前で、そこで初めて法華経の極理、妙法蓮華経の極理を体得されたのではないかと思うのです。それがいまの御言葉です。」(昭和三十一年十二月十四日『戸田城聖全集』第七巻より)

 また、戸田先生は昭和三十二年元旦の「年頭のことば」においても、次のように述べられている。

「われらが御本仏日蓮大聖人は、御年十六歳にして人類救済の大願に目覚められ、かつまた宇宙の哲理をお悟りあそばされて以来、三十二の御年まで、その信念の確証を研鑚あそばされて後、御年六十一歳の御涅槃の日まで、若きときの希望、若きときの夢の一つも離すことなく、生活に打ちたてられたことは、じつにすさまじい大殿堂を見るがごときものではないか。新年の初頭にあたって、吾人が同志にのぞむものは、老いたるにもせよ、若きにもせよ、生活に確信ある希望をもち、その希望のなかに生きぬいてもらわなければならないことである。いうまでもなく、その希望に生きぬく生命力は、御本仏日蓮大聖人の御生命である人法一箇の御本尊にあることを銘記すべきであろう。おのれも大地に足を踏みしめ、はなやかな希望に生きるとともに、世の人たちをも同じく大地に足を踏みしめさせて、人生に晴れやかな希望をもたせようではないか。」(昭和三十二年元旦『戸田城聖全集』第三巻より)




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十八年(2016年)四月作成