『洗心洞箚記』(せんしんどうさっき)

    


タイトル:洗心洞箚記(せんしんどうさっき)

著者:大塩中齋(大塩平八郎)

序:三慶岡道

點:門人 松本乾知

校:門人 松浦誠之 但馬守約

出版書写事項:明治三十年(1897年)発行

形態:二巻全一冊 和装中本(B6版)

発行者:辻本九兵衛

印刷者:瀧川民治郎

発行者:辻本尚古堂

発行所:今古堂 活版所

目録番号:win-0060002



洗心洞箚記』の解説

 大塩中齋こと大塩平八郎(寛政五年・1793~天保八年・1837)は、江戸時代後期の大坂町奉行の与力で陽明学者である。教科書にも登場する天保の大飢饉において、幕府の生ぬるさに義憤した「大塩平八郎の乱」でも有名な人物である。

 また、平八郎は「標註傳習録」でも紹介した中江藤樹(慶長十三年・1608~慶安元年・1648)・熊沢蕃山(元和五年・1619~元禄四年・1691)・三輪執斎(寛文九年・1669~延享元年・1744)などと連錦と続いた陽明学の系譜の一翼を担おうという志を持つ熱烈な陽明学者でもあった。

 今回紹介する「洗心洞箚記」は、陽明学に関する書籍の中では、佐藤一斎の「言志四録」と並んで、明治以降現代に至るまで各界の指導者のバイブルとしてロングセラーを維持している書籍でもある。

 「洗心洞」とは大坂の自宅で経営した私塾名である。そして、「箚」は針で刺す意味があり、「箚記」は書物を読むにあたり、針で皮膚を刺し鮮血がほとばしるように肉薄し、あたかも針で衣を縫うように文章の意義を明確にする意味となる。また、この書籍は、朱子学と陽明学の論争に終止符を付けようとした意図が窺われる。つまり、「箚記或問 二條」と命題が二点あることが掲載されている。

 「大塩平八郎の乱」について概略すれば、天保の大飢饉は「幕府へのご機嫌取りのために、米が大坂から江戸に送られる」そして、「豪商による米の買占め・米価の吊り上げ」が原因であった。この様子を見て義憤した平八郎は、「蔵米(幕府の保管米)の民衆への配布」と「豪商の米の買占め禁止」を要求したが報われることは無かった。

 その後、豪商の鴻池善右衛門に「平八郎自身と門人の扶持米(禄米)を担保に一万両の借金」を申し入れたが拒絶され、師弟の蔵書や私財を売り払い救済活動を続けた。しかし、根本的解決策とは成りえず、民衆と共に武装蜂起の決断をした事件が「大塩平八郎の乱」の顛末である。まさしく、「知行合一」の実践を貫き通した人生であった。

 頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)からは「小陽明」と学識については称賛されたが、彼の直情的な性格を見抜いて「君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之を蔵せよ。」と忠告したことも有名なことであった。

 この書籍には附録として、

 「一齋佐藤翁俗牘」「岡藩角田氏書」「津藩齋藤氏書」「柳川藩牧園氏書」
 「杉本氏書」「島原藩川北氏書」「大友氏書」「吉村氏書」「浅井舅氏書」
 「彦藩宇津木大夫詩一首」「津藩平松氏詩一首」「杉本氏詩一首」
 「福井氏詩一首」「宇津木生詩一首」「尾藩阿部氏詩一首」
 「山陽頼氏贈序并自記」「山陽頼氏詩六首」が掲載されている。

 なお、「標註傳習録」で紹介したように大正時代に「洗心洞文庫」が創設され、大塩中齋の著作等が収集されたようである。そして、大鐙閣から「大塩平八郎伝」が出版された。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)九月作成