『通俗言志四録』(つうぞくげんししろく)

    


タイトル:通俗言志四録(つうぞくげんししろく)

著者:西郷南洲(西郷隆盛)

著者:佐藤一斎

編者:下中芳岳(下中弥三郎)和繹

出版書写事項:明治四十三年(1910年)発行

形態:一巻全一冊 (A5版)

発行者:山縣文夫

印刷者:藤本兼吉

印刷所:秀英舎第一工場

発行所:内外出版協會

目録番号:win-0040004



通俗言志四録』の解説

 佐藤一斎(安永元年・1772~安政六年・1859)については、「南洲手抄言志録」で説明したので省略するが、「言志録」は佐藤一斎が著した語録で、「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」と併せて「言志四録」と呼ばれ、全1133条から構成されている。なお、「耋」は「てつ」と読み「老いに至る」の意味である。「手抄言志録」は西郷南洲がこの「言志四録」から101箇条を選び出して座右の書としたものである。

 なお、西郷が遺した「敬天愛人」は、中村敬宇こと中村正直(天保三年・1832~明治二十四年・1891)の「敬天愛人説」「西国立志編」が典拠であり、佐藤一斎の儒学を咀嚼して西洋的発想の受容を表現したものであるとする説が現在では有力になりつつある。

 今回紹介する「通俗言志四録」の編者の下中弥三郎(明治十一年・1878~昭和三十六年・1961)は、事典出版社として有名な「平凡社」の創業者である。兵庫県出身の下中は陶工から代用教員となり、ポケット顧問「や、此は便利だ」を出版するために平凡社を設立し、その後、「大百科事典」を出版して注目を集めた。国家社会主義を標榜して、教科書でも登場する第二次世界大戦前の大政翼賛会の発足に協力した人物でもある。戦後、公職追放となり平凡社に復帰して「世界大百科事典」を出版したことは有名であった。また、日本書籍出版協会の初代会長に就任した。

 この書籍は、下中弥三郎が「言志四録」の主要箇所を抜粋して、ひらがな交じりの読み易い書籍にし、その精神を伝える目的で出版したものである。原文を上段に配して、丁寧に語訳された書籍である。この書籍で一番印象深かったのは、「言志録」の中で読書の目的が明確に提示されている箇所であった。

 「学問に志すが故に書を読むのである。故に書物を読むことそのものが目的ではない。書を読むことに依って自己修養を為し、之を実際に応用するのが読書の目的である。即ち読書は手段で、学問が目的であるから、この手段たる読書に囚はれて目的たる精神修養を忘れてはならぬ。」と、

 そして、続けて「今の世、見聞を広うしたるが為に反って善人たる素質を失い、ややもすればその見聞に依って得たる智識を悪用するものがある。為に、あまり多く見聞するのはよくないと言う。しかし、古の聖賢の所謂多く聞き多く見るとは、決してその悪用の方面をいうのではない。畢竟智識が悪用されるというのは、見聞の動機が善に資するという本心に基いていないからである。若し根本に於いて善に資する考えがあったならば、何を聞き何を見ても皆自己修養の為になるのである。従って父兄師友の言の成るべく多からんことを求め、書物も成るべく多く読まんことを望まざるを得ないのである。此の意味に於いては多聞多読は決して弊害がないのみならず、大いに必要な事である。聖賢の所謂多聞多見の真義は此の意味に外ならぬ。」と。

 また、「名望を博せんとする野心家が反って高潔なる人物の如くに見え、重箱の角をほじくるような苛察(がさつ)の人が反って明察なる人の如くに見え、唯機械的に或る事に熟練したるのみにて應用も利かず進歩もしない小人物が反ってその道の達人であるかの如く見え、小才の利く軽佻(けいてう・かるくてうすい意味)な小人物が反って鋭敏なる人の如くに見え、惰弱な放縦な人物が反って寛仁な人の如くに見え、事毎に外的事情に拘泥(こうでい)して容易に処断し得ぬ人物が、宛も着実敦厚なるが如くに見える。これらは総て似て非なる人物である。」と、

 そして、「識量と知識とは自ら別のものである。知識は外物に対する経験に因るが故に、外にありというべし、識量はその経験を総合し分解する能力あるが故に、内にありということが出来る。」とある。

 以上は、現代漢字に改めた。

 さて、幕末に活躍した渡辺崋山・山田方谷・横井小楠・佐久間象山など3000人以上もの門弟を訓育した一斎が心血を注ぎ纏め上げた『言志四録』は、現代の各界の長老たちのバイブル的書籍となっているようである。この『言志四録』はある程度の人生経験を経ていないと読みこなせない書籍であるが、明治維新を完遂するまでの人材たちは二十代三十代の若年の時に一斎から訓育されていることを考えると、老人が読む書籍というよりも血気盛んな「青年時代」に読むべき書籍の一つであるように樹冠人は思う昨今である。

 最後に、中村敬宇こと中村正直(天保三年・1832~明治二十四年・1891)について記録しておこう。

 正直は江戸の幕臣の家に生まれ、昌平坂学問所で佐藤一斎に儒学を学んだ。その後、英国に留学して帰国後、静岡の学問所の教授となった。明治三年に「西国立志編」を著し、福澤諭吉の「学問のすすめ」と競う程のベストセラーとなる。福澤諭吉・森有礼・新島襄・近藤真琴・大木喬任と共に明治六大教育家と称される啓蒙思想家である。また、明六社の「明六雑誌」の執筆者としても有名である。森有礼と新島襄そして正直はクリスチャンで、彼が「天は自ら助くる者を助く」と翻訳したことも有名であった。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)一月作成