『翁問答』(おきなもんどう)

    


タイトル:『翁問答』(おきなもんどう)

著者:中江藤樹

出版書写事項:江戸期抜萃本

形態:全一冊(B5版)

目録番号:win-0080001



翁問答』の解説

 『翁問答』(おきなもんどう)は、近江聖人と呼ばれた中江藤樹(なかえとうじゅ・慶長十三年・1608~慶安元年・1648)の著書で江戸前期に成立した随筆的な教訓書である。藤樹が寛永十八年(1641年)に著述した『翁問答』は死後の慶安二年(1649年)に丁子屋仁兵衛より刊行され、最古の版は五巻五冊で出版された。そして、翌年には改訂して風月宗知より出版された。

 今回紹介する『翁問答』は、かな文の問答形式で表現されている儒教の入門書で、読みやすさも手伝ってか、江戸時代末期までは広く庶民層にも読まれた抜萃本である。私こと樹冠人が所蔵している江戸期の抜粋本でも、藤樹が朱子学から陸王学(陸象山と王陽明の学問)に転じた時期の思想変遷が窺える書籍でもある。

 中江藤樹こと中江惟命は、近江国(滋賀県)の農家に生を受けた江戸時代初期の陽明学者で近江聖人とも呼ばれた。惟命は伯耆国米子藩加藤家の百五十石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴くが、藩主加藤貞泰が伊予国大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母と共に移住した。

 惟命は祖父の死後に家督を相続したが、藩に対し辞職願いを提出し拒絶され、脱藩して京師に潜伏の後、近江国に戻った。郷里の小川村(現滋賀県高島市)に戻った惟命は、屋敷に藤の巨木があったことから名付けた「藤樹書院」の名を冠した私塾を建設した。そして、門下生からは「藤樹先生」と呼ばれるようになったのである。

 当初『翁問答』は「自分がこの問答を書いた頃は學未だ精到ならず、且つ聖道の行はれないのを憂へ、末學の弊を救ふに専心していた。ためにその議論抑揚甚だしく圭角の累をまぬかれない。この故に近く改正して世に示す考えである。」と藤樹の心に叶わず、これを改正せんとする意向であった。その為に稿を収めてこれを門人にさえ示すことをしなかった。

 『翁問答』は藤樹の死後に門人が出版したのであるが、その後、抜萃本の二種類が登場して全国流布に貢献したようである。その一つは文化十年(1827年)に讃岐の橘明の編纂した『藤樹先生精言』(写真下)である。橘明という人については、「文化年間に活躍していた藤樹学の尊崇者」というぐらいしか伝わっていないが、よく藤樹学を理解して後学に裨益するところが多かった人物であったようである。他の一つは嘉永四年(1851年)に上野国安中の巌井任重が抄録出版した『文武問答』である。この書は『翁問答』の上巻の末の最初の部分を抜萃して、藤樹の文武に対する意見を披露したものである。

 藤樹の思想変遷を眺めると、当初は朱子学に傾倒するが次第に陸王学の影響を受け格物致知論を究明するようになり、その思想は身分の上下を越えた平等思想に特徴があり、士・農・工・商の四民にまで広く浸透した。江戸の中期頃から「近江聖人」と呼ばれるようになり、門人には「標註傳習録」で紹介した熊沢蕃山・淵岡山・中川謙叔などがいた。また、第二次世界大戦以前の昭和時代には「修身」の授業などで復活隆盛して、学校などでは音読された歴史がある。

 『翁問答』は、天君(てんくん)という師匠と体充(ていじゅう)という門人との問答形式で記述され、上下二巻で構成されている。この書籍の成立時期は藤樹の中期に属し、大乙神信仰を始めた時期でもあり、儒道・五倫の道・真の学問と偽の学問・文と武・士道・軍法・仏教・神道など、特に陸王学の提唱と道徳としての孝説が有名である。

 藤樹先生曰く、「人が外面的な形式的規範に従うことを良しとせず、人の内面的な心の道徳的可能性を信頼して、人が聖人の心を模範として自らの心を正しくすることこそが、人に真の正しい行為と正しい生き方が確立できる心学を提唱した。そして、父祖への孝のみでは無く、一切の道徳を包含する孝道」と説いたのである。

 具体的内容としては、「人間一生涯内容のうち、いづれの道をか受用のわざとなすべく候や」という門人の問いに対して、「至徳要道という生得の宝を心に守って五倫の道を行うべきこと。そして、この宝を求めて学ぶことが儒者の学問であり、この教えは貴賤男女の違いなく本心ある人ならば誰もが実践できる道である」と述べている。

 そして、父母の恩徳や子どもに対する慈愛を述べた子育てに関する項目が続く。つまり、「胎内十月より出産を経て乳哺三年に至る父母の苦労、さらに入学後の慈愛など、父母の広大無類の恩を説き、それに報いる孝行は数々あるが詰まるところ、父母の心の安楽なるようにすることと、父母の身をよく敬い養うことの二つである」と述べている。

 さらに、子どもに対する親の愛情に触れた後、「子孫の教育は幼少時が根本であること」「真の教育が徳教にあること」「八歳以降は『孝経』を読ませて大意を説き」「十五歳以上には師匠と友を選ぶべきこと」など具体的年齢を例示して諭している。

 私こと樹冠人にとって『翁問答』は思い出深い一書でもある。それは、日本の儒教学の勉強を始める最初として何から読むかと思案した結果、近江聖人中江藤樹の『翁問答』だと決意して書籍を探索した思い出があるからである。そして、儒教学の勉強を進めるうちに色々な疑問が湧き出てきたのである。今回から紹介する「江戸偉人関連目録」は樹冠人の疑問追究の遍歴披露でもある。

 過去における中国の伝統的な哲学論は完全なる「善」を研究し提唱した。孔子発信の儒学も朱熹発信の朱子学(宋学)も、全て「性善説」を前提に人間行動の規範解明を研究した。そして、日本における儒教学のピークは徳川幕府時代に迎え、徳川幕府の宗教政策と相まって儒教学導入には世俗社会の規範や道徳を負担させる大きな役割があった。

 日本の近世思想の歩みを眺めると、「篆書唐詩選」で紹介した江戸時代初期の知識層に影響を与えた藤原惺窩(せいか・永禄四年・1561年~元和五年・1619年)は朱子学派であったが陸王学も受容した。次世代を担った京師出身の林羅山(はやしらざん・天正十一年・1583年~明暦三年・1657年)においては朱子学を主流として陸王学を排斥した。現代の教科書などでは「江戸幕府は朱子学を推奨し異学の禁を推進した。」と表現されているが、実は、江戸時代初期には朱子学と陸王学を並立させた「儒教学」を奨励したのである。そして、林羅山の「朱子学」は「昌平黌(昌平坂学問所)」の学問として成長し官学となる。

 林羅山が江戸に建設した私塾の「先聖殿」と同時期に成立した『翁問答』を編纂した中江藤樹(なかえとうじゅ・慶長十三年・1608~慶安元年・1648)は陸王学を吸収したのにもかかわらず「近江聖人」と称賛され、内村鑑三(うちむらかんぞう・万延二年・1861~昭和五年・1930)をも『代表的日本人』と感銘させるほどの人格であった。

 また、伊藤仁斎(いとうじんさい・寛永四年・1627~宝永二年・1705)は「古義学」で荻生徂徠(おぎゅうそらい・寛文六年・1666~享保十三年・1728)は「古文辞学」で朱子学を批判した。また、南学派に属する山崎闇斎(やまざきあんさい・元和四年・1618~天和二年・1682)は儒教と神道を融合して「垂加神道」を提案した。

 また、賀茂真淵(かものまぶち・元禄十年・1697~明和六年・1769)や契沖(けいちゅう・寛永十七年・1640~元禄十四年・1701)を継承した本居宣長(もとおりのりなが・享保十五年・1730~享和元年・1801)は儒教を批判して国学を推奨し、「儒教学」を講義して個性的な人材を輩出した「懐徳堂」は江戸時代末期の社会に許容された。

 そして、近代日本の哲学は、京都の「哲学の道」で有名な西田幾多郎(にしだきたろう・明治三年・1870~昭和二十年・1945)の「善」の研究から始まった。つまり、第二次世界大戦以後の哲学研究は文献学的思考を採用しないで、「儒教学」に影響を与えた体験的「禅の研究」による仏教思想の再構築で始まったのである。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)五月作成